リレーコラムについて

デラシネ・コピーライター

松原紀子

私のことを消息不明とお嘆きのみなさん、私は元気でやっています。昨年8月から資生堂アドクリエイト部(旧宣伝制作部)のコピーライターとして働いてます。挨拶状はつくったのだけど、デザイナーが「こっちのほうがカッコいいすよ」とかなんとか言って定形外にしちゃったので、切手代ケチって一部の人にしか出しませんでした。すんません。とにもかくにも、私にはまず縁がなかろうと思っていた企業内宣伝部に、現在所属してるわけでありまして。

自慢じゃないが、私ほどいろんな立場を経験したコピーライターもそうはいまい。プロダクション、広告代理店、個人事務所、フリー、そしてメーカー宣伝部。しかも順不同、脈絡なしの流浪の民である。無鉄砲極まりない。なおかつ、ちょいと恥ずかしい。TCCのパーティーで人に会うたび「えー、今はここにいまして・・・」と名刺を渡すのも、度重なるごとに後ろめたい。新卒で入社してひとつの会社に勤め続けている人には、本当に頭が下がる思いである。
しかし。こうなっちまったもんはしょうがない。コンセプトはデラシネ・コピーライター、根無し草である。世の中がどうひっくり返っても浮き続けるもんね。それにまあ、けっこう楽しかったしさ。

私が広告業界という大海へはっぱの舟で漕ぎだすことになったのは、実は資生堂の宣伝に憧れたのがきっかけである。コピーライターという職業名も知らない中学生くらいの頃、こういう文章を書く人になりたいと思った。いや、もっと幼い頃、はじめてコピーというものに触れたのも資生堂だった。「春なのに、コスモスみたい」。なんなんだなんなんだ、と私の心はざわめいた。もちろん「はっぱふみふみ」とか「オー、モーレツ!」とかってコピーは耳にしてたけど、それは単なる音でしかすぎなかった。確かオレンジ色の口紅だったと思う。ナレーションでは「春なのにコスモスみたいな気持ち、わかる?」と呼びかけていた。わからなかったけど、わかりたかった。今は亡き母が、そのコピーが入ったペーパーバッグを手にしていたのを思い出す。当然現在の私よりずっと若いはずで、そうか、母も女だったのだと、今さら思う。

私がコピーライターをはじめた80年代初めは、資生堂の宣伝部は男しか採らないと聞いていた。当時はプロダクションやフリーが全盛の時代だ。今よりももっと、アングラぽくって、活気にあふれていた。私は必死だった。1日も早く、一人前になりたかった。悩んで、あせって、あっというまに時が経ち、なんの縁か今は資生堂にいる。入社が決まったとき友人のひとりが「わらしべ長者みたいですね」というメールをくれた。当たってる、というべきか。少なくとも「なりたい、やりたい」をずーっと思いつづけていれば、願いは叶うものだ。

というわけで、希望を持ち続ければ、人は必ずなんとかなる。希望を捨てたら、ハイそれまでよ。このサイトにアクセスする人は、コピーライター志望者も多いと聞くから、どうか実践してみてください。その代わり、向いてないと思ったらさっさと身を引く潔さも持とう。これ、すべて、センスの問題なのである。
 
資生堂 松原紀子

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