TCCの歴史

TCCの会員は現在約900人。
アメリカにも、フランスにも、他のどんな国にも
コピーライター/CMプランナーがこれだけ集まっている団体はありません。
TCCは、おそらく世界で最大のコピーライター集団です。
そんな団体がいったいどんな経緯で生まれることになったのか。
これは、TCC創設期のお話です。

まずここから始まった。「コピー十日会」

TCCは、「コピー十日会」と名乗るコピーライターの集まりを前身として生まれました。「コピー十日会」の結成は1958(昭和33)年1月10日。同好会的・懇親会的色彩の濃い団体で、その名の通り毎月10日に会合を開き、そこではコピーライターの仕事や立場をめぐって、いつも白熱した議論がくりひろげられていたといいます。コピー十日会の発足について、当時の『電通報』(1958年1月号)に次のような記事が記されています。

東京にもコピーライターのクラブ ~上野壮夫氏を代表に近く発足の運び~

「コピーライターの団体としては現在大阪に大阪コピーライターズクラブがあるが、近く東京にもコピーライターのクラブが発足する。クラブ結成の動きは昨年暮れから活発化していたが、10日夕方、銀座の文藝春秋クラブで第1回発起人会を開き、会の性格、目的などについて意見が一致。上野壮夫氏(花王石鹸)を代表者として近く発足することになった。このコピーライターズクラブは、コピーライターの仕事を専門としている現役人をメンバーとするもので、コピーに関係のある人々等比較的広い範囲を対象にメンバーとする大阪コピーライターズクラブと性格を異にする。会の目的はコピーライターの専門作家としての領域の確立をめざし、アートディレクター、デザイナーなどと横の連絡を図ることにある。現在このクラブに参加の意思を明らかにしている人々は次の諸氏である。

蟻田善造(高島屋)、上野壮夫(花王石鹸)、太田勝也(電通)、角南守道(電通)、菊池孝生(森永乳業)、開高健(寿屋)、小林泰介(電通)、小林保博(寿屋/フリー)、黒須田伸次郎(電通/フリー)、土屋耕一(資生堂)、近藤朔(電通)、畑孝宣(丸見屋)、林厚爾(三共)、武田葛(丸見屋)、服部清(味の素)、福原博(博報堂)、村瀬尚(森永製菓)

つまり、コピー十日会は、この17名の人を初代メンバーとして発足したことになります。

但し、開高健さんはその後一度も会合に姿を見せることもなく、”自然退会”というかたちになったとのことです。

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コピーの団体が誕生した時代背景

きっかけは、コピー十日会結成の前年、1957(昭和32)年11月6日に開催された「全日本広告技術者懇談会」に遡ります。この催しは当時の電通社長吉田秀雄氏の呼びかけで、全国のデザイナー、アートディレクター、コピーライター、広告写真家の代表、関係者約150人を帝国ホテル他の会場に集めて行われたもの。広告表現の仕事に携わっている技術者のあいだに思想交流の場をつくる目的から、全国的な規模で行われた初の催しでした。しかしその会場に、コピーライターの参加者はごくごく少なかった。日宣美(日本宣伝美術会)がすでに昭和26年に創立され、ADC(東京アートディレクターズクラブ)も創立されていた中で、コピーライターの大きな組織だけがなかった。そもそもコピーライターという専門職がいまだ一般的には確立されていなかった時代でした。ちなみに、当時のADC年鑑をめくってみると、そこにコピーライターという名称は一つも載っていません。作品を紹介するクレジット欄に並んでいるのはアートディレクターやイラストレーター、あるいは写真家の名前だけ。コピーライターはまったく無視されていました。べつに当時のADCがコピーライターと反目しあっていたわけでもなく、とくに蔑視するという意識があったとも思われません。ただただ「コピーライター」という存在の地位が低く、クレジットすべき制作スタッフとして認識されていなかった、ということでしょう。そのような状況下で行われたこの懇談会で、コピーライターの代表として参加した上野壮夫さんは次のような発言をしました。

「広告制作に作家としてのコピーライターが参加しているかいないかは、広告をひとめ見ればわかる。商品のこころを消費者のこころとして表現するにあたって、時代の心理をふまえた新しいことばの発掘があるとすれば、それはことばの技術者によって行われることが多いはずだからだ。コピーライターには音楽家とか詩人などと同じような精神活動を要求される。商品についての知識はもちろんであるが、やはり社会生活や人間関係についての鋭い感受性とあたたかな理解がなければできない仕事のように思われる。ところが、そういう重要な責任を負わされているコピーライターには、アーティストがアートスクールで学習するようなかたちでの学習機関がどこにもない。ことばの技術を総合的に研究し、勉強する機関がないのである。広告全体の質を高めるためには、コピー学習の機関がどうしても必要だと思う」

コピーライターに、詩人や音楽家のような芸術家的資質…即ち、ことばのもつ機能について敏感に感応する感受性を求め、社会や人間関係を見るに文学者的眼力を必要とすることを示したこの上野壮夫さんの発言をきっかけとして、団体「コピー十日会」が発足するにいたりました。そしてもちろん、会の代表には上野さんご本人が就任。上野さんはこのときから、お亡くなりになるまでずっとTCCの会長を務めることになります。

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コピー年鑑を出したい!という思い

コピー十日会では、会報として『TEN』という機関誌を発行していました。編集委員(土屋耕一、服部清、小林保博各氏)を決め、表紙デザインは山城隆一さんに頼むなど、かなり整った体裁でした。第1号、第2号には会員名簿が載っていて、最初17名だった会員が第1号では23名に、第2号では37名になったことが記されていたといいます。それぞれで増えた会員は、次の通り。

第1号
1959年度
小田真(電通)、大谷弘(電通)、兼巻通高(博報堂)、川田浩(森永製菓)、栗原弘二郎(資生堂)、永山十四(花王石鹸)
第2号
1960年度
及川惣吉(電通)、鹿野宗孝(寿屋)、北村昭一(正路喜社)、久保田信雄(フリー)、杉山隆一(フリー)、洲崎卓夫(電通)、須藤希一(博報堂)、多比羅孝(小林コーセー)、等々力隆(正路喜社)、西尾忠久(三洋電機)、福田正博(電通)、増山太郎(電通)、村川修二郎(毎日広告社)、吉田隆一(電通)

『TEN』第3号は1961(昭和36)年10月に発行されていますが、この号には『コピー年鑑』発刊の問題が緊急議題としてとりあげられています。当時の様子を、西尾忠久さんは著書『日本のコピーライター』の中で、次のように記しています。

会報第3号が出た頃には会員数も84名にふくれあがって一大勢力になっていた。すでに「コピーライター」のことを「文案家」などと呼ぶ人は、広告界にはいなくなっていた。昭和37年のある夜、電通のある部屋で「コピー十日会」の委員会が開かれた。土屋耕一氏が、それが一年来の口癖になっていた“年鑑を出そうよ”という言葉をその夜も口に出したのを覚えている。私(西尾)はどうしたことか腹の虫の居所が悪く、ふだん尊敬している土屋氏にくってかかる口調で“出そうよ、では出ないよ”と言い、“ほんとうに出したいなら、その手段と具体的手続きと出版社を決めるべきだよ”とつづけた。その後、土屋氏は急用があると帰っていった。竹岡美砂氏が心配して“あなた、心当たりがあるの?”と私に聞いてくれた。こうして私が誠文堂新光社へ使者に立つことになった。

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そして「十日会」から「TCC」へ

1962(昭和37)年7月30日および8月2日に緊急委員会が開かれて『年鑑』発行の具体的事柄について審議され、つづいて8月28日の委員会で『年鑑』の名称案が練られたと記録があります。そのときの名称候補案は「日本広告文年鑑」「広告コピー年鑑」「コピー’63」の3案でした。また年鑑の審査基準についても「コピーは広告表現の一要素であるので、作品の中からコピーだけを単独抽出して審査するのは不自然であり、コピーの働きを無視することである。したがって、コピーの善し悪しはモチロン審査俎上(そじょう)に乗せなければならないが、あくまで完成された広告作品を、審査の対象にすべきである」(『TEN』第4号)とあります。

そして同年9月10日、コピー十日会総会が開催され、年鑑編集経過報告や審査基準の承認のあと、もうひとつの大きな議題がここではじめて持ち出されます。会名変更の提議でした。

「コピー十日会」という会名は私的団体色が濃く、広く公的な場での活動が狭められがちなので、よりオフィシャルな団体名にすべきである。

近藤朔さんがこの会名変更の主旨を説明し、総会においては問題提起の段階にとどめた上で、最終的決議はすべて中央委員会に一任することとなった、と『TEN』第5号にあります。

そして、つづく9月26日に委員会がもたれ、新しい会名についての決議が行われます。名称候補は2案。

◎東京コピーライターズクラブ
◎東京アド・ライターズクラブ

社会性・国際性の見地から検討を重ねて票決の結果、前者に決定。同1962(昭和37)年10月10日に緊急総会が開催され、新名称承認の上、即日「TCC」が発足することになります

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時代の流れを超え、いまに至る

コピー十日会からTCCへと生まれ変わった翌年の1963(昭和38)年、懸案だった「コピー年鑑」が発刊されます。この年鑑は、ただ流れ去る仕事としての広告コピーを、一年間の全貌としてとらえて俯瞰できるようにしたものでした。

広告のコピーがいま当面している技術的問題について考える場合、…(中略)…新しい伝達理念の上に立った「ことばと視覚的伝達技術との総合」という、より高い時点での「ことばの問題」として考えはじめている。…(中略)…「コピー年鑑」は、こういう考え方に立って企画され、作品の選択もそういう観点に立って行われた。「ことばとビジョンとの総合」という点でみごとな開花を見せている作品、コピー発想の上で、そういう前進的な姿勢の見られる作品、というのが採録の基準となった。

上野壮夫さんが第1号年鑑である『コピー年鑑’63』に記したこの文は、21世紀になったいまでも少しも古びることがないように思えます。

コピー十日会の黒須田伸次郎さんや上野壮夫さんといった人たちが戦後のコピーライターの第1世代だったとすれば、コピーライターの地位確立の実質的な推進力となったのが、西尾忠久さん、土屋耕一さん、近藤朔さん、梶祐輔さん、志垣芳生さん、蟻田善造さんといった人たちだったと言えるかもしれません。この皆さんは“昭和5年生まれ組”“昭和6年生まれ組”などと呼ばれ、黎明期のTCCを推し進める活力源となっていました。

時代は進み、それぞれの時代をリードする広告コピーと、その表現を作るコピーライターが生まれてTCCの歴史を塗り替えてきたことは、歴代のコピー年鑑に記されている通りです。そして、その歴史の流れはさらに、イマから未来へ進み続けています。

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  • このテキストは以下の文献をもととしてTCC会員活動部がまとめたものです。
  • 新井誠一郎著『コピーライター』1979年
  • 『コピーライターズインデックス』巻頭文(梶祐輔/土屋耕一)1988年
  • 堀江朋子著『風の詩人-父上野壮夫とその時代』1997年