リレーコラムについて

サン・アド入社前の話【中編】(コピーライター開業の巻)

内藤零

こんにちは、お世話になります。
信じてもらえないかもしれませんが、
昨晩、夢の中に登場した相田みつをに
「5回書かなくてもいいんだよ。目安だもの」
と言われ、安堵の溜め息をつく内藤零です。

詳しくは「サン・アド入社前の話【前編】」
のほうをご覧いただきたいのですが、
ほとんど読書の経験がないにも関わらず、
思いつきで小説を書き始め、案の定、
巨大な壁にぶち当たり挫折してしまった僕。

そこで、次なる道として興味を持ったのが、
「コピーライター」という職業でした。

「小説らしきもの」を書いている時から
長い文章を書くことが苦手だったので、
「コピーなら短い文章だから書けるかも?」
という甘い考えに支配された結果でした。

宣伝会議の「コピーライター養成講座」
というところに通うことにしました。
「2000年春コース/関西」でしたかね。
同級生だった皆さん、お元気ですか?

あと、大学にも一応まだ籍があったので、
(こちらも詳しい話は【前編】に譲ります)
「電通クリエイティブ塾 関西4期」という
某社主催の塾みたいなのにも通いました。

クリ塾の同期には、現電通の岡野草平くん、
電通クリエーティブXの和泉大介くんがいて、
ふたりとも長らく会ってないんだけど、
かなり先を越されちゃった感があるので、
僕も今後、負けじと頑張りたいものです。

講座に通いながら、そして講座修了後も、
僕はコンビニでの深夜バイトに励みつつ、
キャッチコピーやラジオCMの公募を見つけ、
そこに作品を応募することにしました。

コピーのコンテストとして有名なものだと、
たとえば「宣伝会議賞」などがありますが、
インターネットで必死に探してみれば、
予想以上に、いろんな公募があるものです。

とにかく大量の作品を書いて送ったし、
すごくマイナーな公募にも応募したので、
こういったコンテストには、そこそこ
高めの確率で入賞することができました。

しかし、こういったコピー公募などで、
いくつかの賞に引っかかるのとは裏腹に、
コピーライターとしての第一歩を
踏み出すための就職活動は難航しました。

大学は中退してしまったので、当時の僕は、
「高卒で、コピーライター歴がないどころか
広告業界の経験も、会社歴すらない」という
かなーり採用しづらい人間だったのです。

フリーターとしてコンビニでバイトしつつ、
新聞や「ブレーン」「広告批評」の求人を見て、
おそらく100社くらいは受けたでしょうか?
ひょっとしたら、それ以上かもしれません。

応募資格に「経験者のみ」や「大卒以上」と
書かれていても気にせずに応募してました。
そうしないと、応募できる会社がないから。

もやは記憶が定かじゃないんですけど、
途中からは、ほとんどヤケッパチになって、
コピーライターを募集してない会社にも
履歴書や作品を送ってたような気がします。

しかし、たいていの会社は書類審査で落選。
たまーに面接してくれる会社があっても
「うーん、未経験ではねぇ…」みたいな反応。
冗談抜きで、本当に1社も通らないんです!

さらに、恐ろしいことに、というか、
まあ当然っちゃあ当然の話なんですけど、
就職活動に失敗してるあいだにも僕は、
1歳、2歳、3歳…と年齢を重ねてくわけです。

未経験のまま、ひたすら歳を取っていく。
これって要するに、コピーライターとして、
さらに採用されにくくなるってことです。
いやー、どうしよう。もう八方塞がりです!

ところが、2003年の春ごろになって、
少しばかり状況が変化してきたのでした。

その当時、「文案家の踊り場」という
コピーライターやその志望者などが集まる
サイトがあったのですが、その掲示板に、
「フリーコピーライター募集」の文字を発見。

書き込みをされたのは、そのサイトの
管理人でもある河合さんという方なのですが、
「未経験でもいいんすかね?」と訪ねたら、
「駄目ってことはない」みたいな返事でした。

そして、まあ、結論から言いますと、
その河合さんが勤めている制作会社から、
フリーとして仕事を頂けることになりました。

そして、ほぼ同時期。「宣伝会議賞」で
協賛企業賞を2つほどいただいたのですが、
贈賞式後に宣伝会議さんから電話がありまして…

「大阪の制作会社から、内藤さんの連絡先を
教えて欲しいという問い合わせがあるのですが…」

そんな内容だったんでOKをしたところ、
その制作会社さんからも、フリーとして
コピーの仕事を頂けるようになりました。

いま思うと、本当に図々しい話なのですが、
コピーライター未経験者だったにも関わらず、
僕はフリーランスとして活動を始めました。

いきなり多くの収入があるとは思えないので、
もちろんコンビニの深夜バイトは続けつつ、
自宅のマンションでコピーを書いてました。

その後、周りの人たちの助けもあって、
ぼちぼちと仕事の量は増えていきました。
僕のことを売り込んでくれる親切な人も現れ、
以前から興味があったラジオCMの仕事も、
ときどき貰えるようになったりしました。

フリーコピーライターとしての収入も、
月によってバラツキは大きいものの、
「もうバイト辞めても食べていけるぞ!」
という雰囲気になりつつあったのでした。

しかしまあ、それで満足という訳でもなく。
「もっと違う仕事もしてみたいなぁ」という
思いもムクムク膨らんでいったわけです。

実際、コピーライターを開業してからも、
気になる会社の募集を見かけたときには、
履歴書や作品などを送ったりしてました。
それでまた10社くらいに落とされました。

っていうか、
いくらなんでも落ちすぎだと思います!!

そんなある日。2004年の春のことです。
今はなき「広告批評」で、サン・アドの
コピーライター募集広告を見つけました。

一度も会社員になったことがないまま、
すでに26歳という年齢になっていた
フリーコピーライターである僕は、
サン・アドという会社に履歴書と作品、
課題作文を郵送することにしたのでした。

(サン・アド入社前の話【中編】/おわり)

※この先の話は「サン・アド入社前の話【後編】(全裸パークジャパン!の巻)」をご覧ください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

アドミュージアム東京の「TCC広告展」で
「コピーライター行動展示」をしたとき、
コピーライターを目指す人、あるいは
ものすごく若いコピーライターからの質問で、
「どうやってコピーライターになったんですか?」
というのが多かったので、ひょっとしたら
何かの役に立つかもしれないなぁと思い、
自分がコピーライターになった経緯を書きました。

なにぶん、かなり昔の話なもので、
多少の記憶違いみたいなものが、あるかもしれません。

内藤零(ナイトウレイ)

NO
年月日
名前
5692 2024.04.21 長谷川輝波 言葉オブザイヤー@ヘラルボニー
5691 2024.04.20 長谷川輝波 言葉オブザイヤー@韓国の街中
5690 2024.04.17 長谷川輝波 言葉オブザイヤー@新宿ゴールデン街
5689 2024.04.12 三島邦彦
5688 2024.04.11 三島邦彦 最近買った古い本
  • 年  月から   年  月まで