リレーコラムについて

やりたくないこと、できないこと

中山幸雄

定年退職と言えば、未来への不安を抱くと同時に、
これまでとは違う時間が過ごせるかもしれないと
漠然とした希望がふくらむときでもある。
定年退職したら妻と海外旅行をしたいと望んで、
あっさり断られた同僚もいる。
人生、なかなか自分の望み通りにはならない。

僕は二軸のチャートを作ることから始めてみた。

  (1) やりたいこと⇔やりたくないこと
  (2) できること⇔できないこと

チャートを見ながら我ながら愕然としたのは、
「やりたくないこと」「できないこと」の象限が
圧倒的多数であることだった。
そうか、「やりたいこと」を考える前に
「やりたくないこと」「できないこと」を
過不足なく分析する必要があると気づいた。

例えば、僕は自動車免許を持っているが、
この数十年ハンドルに触ったことがない。
免許を取って早々三回運転して、
いずれも事故にはつながらなかったものの、
まったく自分には向いていないことを自覚した。
ということは、タクシー運転手にはなろうとしてもなれない。
第一、方向音痴だから客に目的地を言われても
カーナビだけに頼ってたどり着けるとも思えない。

近所のスーパーのレジ係はどうだ。
客でなく、自分がやると思ってあらためて観察してみると、
鈍臭い対応ではすぐに客から文句が出そうだ。
トレーニングすれば僕だってちっとはマシになるだろうが、
一流レジ係の境地は遙か遠くに霞んでいる。

僕の会社のデスクは38階にある。
時折、ガラス磨きの清掃員が安全綱を付けて作業している。
ブルブルブル。
高所恐怖症の気も多少ある僕に、
あの仕事はどう逆立ちしてみても無理だ。

こうして世間を見渡すと、
自分には「できないこと」だらけであることが分かる。
時給を調べてみたが、900円から1,000円くらいが多い。
年間1,800時間一所懸命働いて、時に叱られて、
162万円から180万円の年俸だ。
世の中、案外厳しい。

「やりたくないこと」もある。
自分は結構順応性がある方だと錯覚してきたが、
わがままだったり、気むずかしい面をズバッと指摘される(特に同居人に)。
20代の上司に頭ごなしに指図されても平穏でいられるか。
『釣りバカ日誌』のハマちゃん、『総務部総務課山口六平太』あたりなら
人間の器が大きそうだからなんとかなるだろうが、
僕は無理だろうな。
ムッとして感情が顔に出るに違いない。

そうやって頭の中で「やりたくないこと」「できないこと」を
ひとつずつ消去していった。
その過程で「やりたいこと」「できること」が少しずつ見えてきたのだが、
それを実現するには何を諦めるかを先に決めることが大切だ。
『ウェブ進化論』を書いた梅田望夫さんに教わった。

結局、僕は、

  (1)肩書き
  (2)年俸

を諦め、

  (3)時間

を得ることにした。

これまで勤めてきた会社(電通)が
2014年4月に導入したシニア社員制度に応募し、試験・面接を受けた。
(エクセルの試験も受け、87点でシニア最高スコアだった!)
結果、フルタイムの契約社員として再雇用され、働くことにした。
1年契約で双方の合意があれば最長5年まで延長できる制度だ。

「定年して何が変わった?」と友人に聞かれるとき、
僕は「責任が減って、収入が減って、時間が増えた」と答える。
責任と収入が減ってマイナス面ばかりかと言うとそうでもない。
例えば定例会議に出ないことで自分の役割が限定されるから
他人の分まで心配を背負い込む必要はない。
人の評価もしなくていい。

収入が減るのは決して愉快でないのは事実だが、
自分がこれまで無駄遣いをしていたこともよく分かる。
ない袖は振れないから、やめることが明快になる。
義理で人と飲食する必要もない。

職業柄もあり性癖もあり、
本を買うことには金を惜しまなかった。
でも、それはもうできない。
文庫、新書くらいは買えても単行本を次々買うことはできない。
読書の習慣はあきらめたくないから、図書館の情報を集める。
職場の近くに平日22時まで開館している図書館が二館あった。
千代田図書館、日比谷図書文化館だ。
新橋駅の立ち食い蕎麦屋で軽く腹ごしらえした後、
図書館に寄って本を読むひとときは案外贅沢な時間になることを知った。

反対に時間が増えたことも単純にプラス面になるとは限らない。
やること、やれることを自分で見つけていかないと、
職場でも家庭でも時間を持て余す。
それは、人生の損失だ。
なに、フルタイムと言っても9時30分から17時30分だ。
広告クリエーティブの仕事をしていたときは、
そんな時間帯ですべてが収まる訳もなかった。

もう10代、20代ではないから、
やりたくないこと、できないことにかかずらってはいられない。
そんな時間は人生に残されていない。
やりたいことにまっすぐ取り組み、
できることの周辺領域を少しばかり広げることに集中したい。
それには、まずやりたくないこと、できないことを
全部ゴミ箱に捨ててしまうのだ。
僕の3ヶ月後に生まれてきた
スティーブ・ジョブズの教えでもある。

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