リレーコラムについて

原点と分岐点。そして僕はここにいる。

成田倫史

こんにちは。3日目です。
大広名古屋支社の成田倫史(ともふみ)です。
今日は私をこれまで支えてくれた人たちのお話をします。

私のコピーライター人生は
平成元年、名古屋本社の三晃社からでした。
新卒入社でずばり営業志望。
コピーライターとかよくわかっていなくて、
コピーライター養成講座に通うわけでもなく
ただ、入社後の作文がどこか変だったという理由で
(250ccバイクで北海道1周した旅行記を書いただけなんですが)
制作局コピーライターセクションに配属されました。

20代前半は
求人広告やパンフレット、チラシのコピーに明け暮れました。

25歳前後は
CCNの大先輩、大橋政男さんや森健さんと出会い
コピーってちょっと面白いかも…でした。
この段階では
TCCのこと、まったく意識していませんでした。

転機は26の結婚とともにはじまりました。
新婚旅行から帰ってきてたら
配属がグラフィックから電波兼任へ。
そして…
20代後半から30代前半に
三晃社の2人のコピーの師匠、
広島出身の原田稔さんと
トンプソンからかわられてきた長屋良行さんと
出会いました。
コピーのこと、音楽著作権のこと、東京のこと、などなど
クリエイティブディレクターの真髄を知りました。
ここではじめて魚住勉さんとか
TCCのことも知りました。
いつもいつも叱られていました。

大きなトラブルもありました。
理髪店で不覚にも涙し
バリカンを手にしたスタッフさんから
「どうされたんですか?大丈夫ですか?」と聞かれ
「なんでもないです」と答えた坊主頭事件。
そんな時
先輩から言われたこと。すごく覚えてます。
けしてお前だけが悪いんじゃない。
でも誰かがそうしないと、
事の重大さが会社やチームに伝わらないんだ。
と。
当事者ではないこの先輩が
水面下でこのトラブルの収拾に
動いていただいていたと知るのは
10年先のことでした。

…驚いたことに
ここで接点ができた音楽出版さんと
今回の日本心臓財団の受賞作の
バックミュージックを歌う青木まり子さんの
音楽出版さんの担当が
なんと同一人物だったんです。
ほぼ20年ぶりに再会して打合せ。
事実ってドラマだなぁとつくづく思いました…

話を戻して
その坊主頭なんですが
これが意外に好評で
あれから10年以上
つい最近まで続けてしまいました。(今伸ばしてます)
でも、そんな2人の先輩の背中を必死で追いかけてました。

私の原点はまぎれもなく三晃社です。
あっという間にいろんなことに巻き込まれていきました。
なんでもやりました。逃げることは許されませんでした。
一人でこなすことばかりでした。

そして33歳。
長屋CDの下でアイカ工業という
名古屋の建材大手のTVCMに携わることに。
♪こ~れ~も~アイカ~♪あれもアイカ~
   ♪たぶんアイカ~♪きっとアイカ~
1作目の「新郎はあのアイカ工業にお勤めで…」
から始まり、
ナコードのおっさんが歌うやつだけです。
覚えてる方どこまでいらっしゃるでしょうか?
作詞 五木寛之 作曲 小松原まさし
愛の水中花の替え歌にする
OKが…でたんですね、これが。
東名阪エリアでONAIRされ
突然ACC賞とかがやってきたりして。
ここにきて
自分の中の何かが覚醒してしまったと
いうことにしておきます。

35歳で大広名古屋支社に転職。
そこで、今度は尾崎敬久という
私にとっては見たことのないスタイルの男と出会いました。
一晩で100本のキャッチコピーをあっさり仕上げてくる、
とんでもなくストイックな男が、私の前に突然現れたんです。
彼からはいろんな刺激を受け、時に遊び、ぶつかりもしましたが、
コピー1本で闘う世界の醍醐味、
厳しさ、そして一瞬の喜びを
目の前で見せてくれました。
私の分岐点に尾崎敬久さんがいたのです。

そして、彼の影響から
35歳にして私はTCCという大きな存在と
CCNという仲間と向き合いはじめることになりました。
苦難の道はここからはじまるんです。
長くてすいません。
1人でも読んでいただける人がいることを祈りつつ…

…原点と分岐点。そして僕はここにいる。

私をこれまで支えてくれた人たち 後篇 (35歳~45歳)は
明日お届けいたします。

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