リレーコラムについて

○○○○のこと

古居利康

 ずっと気になっていた本があります。
ある方の仕事場の書棚の、わりあい目立つ位置に、
なにげなく置いてある本。打ち合わせでお邪魔すると、
その方は必ず本棚を背に坐るので、その本の背表紙は否応なく
僕の視野に入ってきます。
 あるとき、僕は、その本の題名のものすごさにとつぜん
気がつき、それからそこに行くたびに、その題名に
目を奪われてしまうようになりました。

 本の題名を、いま、ここで書くわけにはいきません。
書くとしたら、伏せ字で記すしかないのが心苦しいです。

 『さあ、○○○○になりなさい』

 という、呼びかけ式のタイトルです。これを見るたびに、
じぶんがそう言われているような気分になります。
そう言われれば、じぶんはそういうところのまったくない、
きわめてまっとうな人生を歩んできたなぁ。
そんな感興をおぼえることもあり、すこしくらいは
○○○○なところがないと、いいコピーなんて書けないかも、
と我が身を顧みたりもします。

 その方の仕事場以外の場所で、ついに、はじめてその本を
見たのは、つい先週の土曜日のこと。
丸の内にある丸善本店の最上階にある、書店内書店、
松丸本舗の中をさまよっているときのことでした。
 ごぞんじの方も多いと思いますが、松丸本舗とは、
稀代の読書家にして編集者、70年代に工作舍を設立して
雑誌『遊』を世に送り出した思惟のひと松岡正剛さんが、
個人の目線で集めた本だけを、カテゴリー横断的に集積した
とんでもない本屋さん。
 新刊も古本も、学術書も漫画も、松岡さんの分類に従って
ほとんどカオス状態で並べた書棚。

 まっすぐ立っている本もあれば、横積みにされた本もあり、
計算された乱雑さが、めくるめくような幻惑にひとを誘います。
そのうえ、ふつうの書店のように書棚がまっすぐ立っておらず、
入り口から奥に向かって螺旋状に弧を描いて並んでいて、
さほど広くはない空間なくせに、うっかりすると迷子になりそうな
配列がなされている。松丸本舗に行く場合、僕は何の本を
探そうとか、誰某の本を見つけようといった類いの
こざかしい目的をもたないようにしています。
こころをなるべく平らかにして、ただ出会いをだいじにする。
そうすれば、本はあっちから近づいてきます。

 『さあ、○○○○になりなさい』

という本も、そのようにして僕に近づいてきました。
店内を螺旋状に曲がりくねった奥のすこし手前。
「本殿」と名づけられた一角の棚に、その本は身を横たえて
いました。その棚の名は、「科学から空想へ」だったか、
「いちいちの修羅」だったか、「体の中で風が吹く」だったか
失念してしまいました(書棚のあちこちに、松岡さんが書いたと
思われる詩のような分類の言葉がついているのも、
松丸本舗の特徴です)。あ、あの本だ。本に目があれば、
目が合った!というような、そんな状況。
ともかくも、僕は、ついに出会ったのです。

 はじめて手に取るその本は、意外に小さい本で、
新書判をひとまわり大きくしたくらいのハードカバー。
色は濃いピンク。題名の下にあるらしいのに、字が小さいために
あの方の仕事場ではどうしても読めなかった著者名が、
フレドリック・ブラウンであることがわかりました。
 フレドリック・ブラウン。なんだ、SFのショートショートの
手練れではないか。『火星人ゴーホーム!』という長編もあったけど。
中学生のころ、創元SF文庫かハヤカワ文庫で何冊も読んだ
記憶がある。ファンだったと言ってもいいくらいだ。
翻訳者は、星新一。早川書房刊。・・そうか、そういうことだったか。

 いま、なにがそういうことだったのかよくわからないままに
思わずそう書いてしまいました。腑に落ちた、と言うべきか。
帰り道、東京発大月行中央線特別快速電車のなかで、
さっそく読み始めた僕は、開いた頁の左上部にある小説の題名、
 
 『さあ、○○○○になりなさい』

という文字を、ぜったいひとに見られないように気をつけるあまり、
なんとも奇妙な持ちかたをしている。もしかしたら、
○○○○なやつ、と思われたかもしれません。
 しかし、まぁ、それにしても、あの方はなにゆえこの本を、
仕事場の書棚のいささか目立つ場所にわざわざおかれるのか。
いつか勇気を出して訊いてみなければと思っています。

                     (20110720)

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