リレーコラムについて

松井秀喜選手が教えてくれること

野澤友宏

六年ほど前のことでしょうか、祖母が、九十歳も半ばを過ぎて、毎日を病院のベッドで過ごすようになった時のことです。母につれられてお見舞いに行くと、すでに祖母は僕の顔を見ても誰だか分からなくなっていました。その三ヶ月ほど前に来た時には、体こそ弱っているものの頭はまだまだ健在。孫の中でもいちばん溺愛していた僕が東京から見舞いにきたことを、大げさに喜んでくれていたばかりでした。

僕よりも母の方がショックが大きかったのでしょう。祖母の耳元に向かって、「ほら、ともちゃんが来たよ、ともちゃんだよ」と大きな声で何度も繰り返しました。「やだ、忘れちゃったの?ともちゃんだよ、ともちゃんが来たんだよ」
母の必死さが通じたのか、ふと、祖母の顔が僕の方に向けられ、目に喜びが浮かびました。「ああ、ともちゃんかい…」「そうだよ、ともちゃんがきたんだよ」「ああ、そうかい、アメリカから来てくれたんかい…」ん?アメリカ?「昨日は、あれかい?ホームランは打ったんかい?」んん?ホームラン?
アメリカで、ホームラン…祖母の中で、僕と松井秀喜選手が混ざって一緒になっていました。
「うん、打ったよ、大きいやつ」その前日、松井選手が本当にホームランを打っていました。だからでしょうか、素直に嘘をつけた気がします。
母も、あえて訂正しようとはしませんでした。

僕は松井選手のファンでした。僕より母の方が熱心に松井選手を応援していました。ちょうど僕が保険会社の仕事で松井選手とご一緒した頃でもあり、母は喜びのあまり祖母に幾度も松井選手の話をしていたのでしょう。祖母の中で僕と松井選手とが一緒くたになったのも、そう突飛な話ではないのです。母が祖母に突然訪れたボケの兆候を笑って許せたのも、僕と松井選手が重ねて語られていることが少なからず嬉しかったからかも知れません。

松井選手とは、保険会社の仕事とその後吉野家と二度仕事をする機会を得ました。本当に人柄の素晴らしい尊敬すべき人です。偉大なるメジャーリーガーというよりか、むしろ、本当に野球が好きで好きでたまらない高校球児のような純粋さを感じさせる人でした。自分の仕事とひたすらピュアに向き合う生き方。松井選手のバットが観る人を感動させるのは、その純粋さに違いありません。

思えば、その道で偉業を成す人、人々に感動を与える人にお会いすると、皆、同じような純粋さを感じます。純粋な志に感銘を受けます。その存在の透明感に胸を打たれます。微塵の邪念も感じられないのです。

それに引きかえ、自分はどれだけ「広告」とピュアに向き合えているだろうか。「いいものをつくりたい」と思う裏に、「世間に認められたい」とか「賞が欲しい」とか「有名になりたい」とか、ひどく邪念がうずまいているような気がしてなりません。そうした欲望や野心も、きっと必要なことでしょう。でも、純粋に仕事を向き合っている人、ひたむきに楽しんでいる人には敵いようがない気がします。

祖母の目に、僕はどう映っていたのか。
松井選手のような純粋さはうっすらでも透けて見えていただろうか。

その少し後、祖母より先に、母が亡くなりました。
一年後、母の死を知ることなく、祖母も亡くなりました。
母を、そして、祖母を思い出すたびに、自分の中にある純粋さが少しでも濁らないようにと、自分を戒めるばかりです。

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一週間、おつき合いいただきまして、ありがとうございました。
結局、緊張がほどけぬままに時間が過ぎてしまったように思います。

来週は、今年新人賞をとったばかりの「さだまさし」君です。
僕の緊張が、彼にまでうつらないといいのですが。

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