リレーコラムについて

5人の広告作家 3

迫田哲也

きょうも「5人の広告作家」から。

ヤング・アンド・ルビカムの会長だったジョージ・グリビンは「クライアントが決定した神聖な牛(批判、攻撃できないもの)にのっとって、いい広告が書けるとお考えですか?」という質問に答えて、こういった。

●そうですね、できますね。できるといいますよ、その牛が像みたいに大きくない限りは。(笑い)

火曜日に書いたバーンバックの答え方とくらべてみてください。40年前のDDBとY&Rのポジショニングの差がそのまま出ているみたいでおもしろいです。こういうこともいっています。

●ライターは陳腐なことをペストのように避けなければいけないと思います。承諾者ではなく質問者になるほうがいいと思います。すぐれたライターは俗物であるはずはありません。俗物では人々のなかにはいっていくどころか、人びとから遊離してしまいます。それではライターにとって自殺行為です。ライターは皮肉屋ではなく、陽気になるべきだと思います。とにかく、人生を排斥することはライターにとってよくないといっているわけで、皮肉屋とは人生を排斥する人のことです。参加せよ、参加せよ、参加せよ、と私はいいます。

ここでいう「俗物」は、原文がないのでわかりませんが、文意からするとsnobではないか。上流気取りの、とか、えせインテリとかいうニュアンスで、無学・無風流という意味の「俗物」ではないようです。このジョージ・グリビンのページはおもしろいと思わなかった。「承諾者でなく質問者」という部分以外、読み流した。ここで説かれているコピーライター像は、好青年です。彼は知的で積極的で行動的で、世の中の因習に無条件に従うことを笑って拒否する。「陽の当たる坂道」や「憎いあんちくしょう」のなかで石原裕次郎が演じた青年像に近いかもしれません。なんでえ、と感じたのだと思う。ところがこの最後の人生訓のような言葉、陳腐ともいえるこの言葉が、切実な重みをもって迫ってくるようになったのはここ数年のことです。
かつて私は、いい奴だけど仕事はまあまあ、といわれるより、嫌いだけど仕事ができるからしかたないといわれる人間のほうが格好よいのではないか、とかうっすら思っていた。自分もそういうふうにありたいと思っていた。でもあるとき、数人の「できる」知り合いの顔を思い浮かべてみると、みな似ていることに気がついた。きちんとした仕事をきちんと続けている人はみなそれぞれ、グリビン氏のコピーライター像にどこか似ていることに気がついたというわけです。
考えてみるとこれは相当、深刻な事態です。石坂洋次郎的青年像を羨みつつ自身にはその資質がないと幼いころに観念した人間にとっては。おそらく人間はそれほど器用ではなく、仕事にきちんと対峙する人はやっぱり他人にもきちんと対峙する。どちらかはきちんとして、もう一方はいいかげんにするという使い分けはできない。ああなんてつまらないんだ、いい仕事するのがいい人だなんて(もちろん、いい人でありさえすればいい仕事できるわけではないです、でも)、やばいよオレいい人じゃねーもん、とりかえしつかないじゃん、もっとはやくいってくれよ、って、まあ読み飛ばしていた自分が悪いんですが。

ADK 迫田哲也

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