リレーコラムについて

いちばん好きな国

桃井菜穂

5年前のこと、はじめての海外で私は忘れられない体験をした。

ロンドンへ短期留学に行くのが目的だったのだが、
学生でお金がなく、海外にも一度も行ったことがなかった私は
韓国→シンガポール→スウェーデン→フィンランド→ロンドン
と安い航空券(一部は船旅)で乗り継ぐことでついでに海外旅行を楽しむことにした。

そんなわけでフィンランドを満喫した時のこと。

朝6時のフィンランド発の便でロンドンに向かう予定だった私は、
ルート検索で見つけた朝3時発の電車に乗って空港に行くことにした。

フィンランドってすごいなあ。
夜中も電車が営業しているなんて。さすが公共福祉の国。
感心しながら駅へと歩いていった私は、
直後、地獄に突き落とされることになる。

駅のドアが開かないのである。

押しても引いてもタックルしても、
開く気配は全くない。

その日は、ちょうど花金の夜。
酔っ払ってたむろする人に、その場で飲んでいる人。
大量のフィンランド人が陽気に盛り上がっている駅前の広場で、
私は一人慌てふためいていた。

うろうろする私をナンパ待ちだと思ったのか、
酔っ払いの2人組が声をかけてきたが
こんな時に出会いを楽しむ余裕は私にはない。

この入り口が閉まっているだけかな?と思い、
他の入り口に向かってみる。でも、やはり開かない。
どのドアも鍵は厳重にかけられており、中の明かりも見えない。

いつのまにか刻一刻と迫る搭乗時刻。

タクシーで飛ばせばまだ間に合うかも、と
タクシー乗り場の方を見ると、ざっと30人は並んでいる。
そう、今日は花金の夜なのだ。

血の気が引いて行く。やってしまった。
どうしてインターネットの情報を簡単に信じてしまったんだ。
ちょっと前に痩せるクリームを信じて買って後悔したばかりなのに。
冷静に考えれば、こんな真夜中に電車がやっているはずがないのだ。

為すすべなくフリーズしている私に、
どうしたの?と声をかけてくる人がいた。
焦りすぎて気づいていなかったのだが、
先ほどのナンパの2人組がずっと付いてきていたのである。
拙い英語で状況を説明すると、彼らが驚きの行動に出た。

「この子が飛行機に遅れそうだから、先に乗せてあげてほしい!」

タクシープールに並んでいる人たちに向かって、そう話しかけたのである。
フィンランド語だったので正直内容はさだかではないが、
でもおそらくそう言ったんだと思う。
みんなが道を開け、先頭のタクシーに乗せてくれたから。
文句を言ったり怒ったりしている人はひとりもいなかった。

フィンランドは親切な人が多い。
それはガイドブックやテレビでよく言われていることだが、
その言葉の数々より、このたった一回の経験のほうが
よっぽど強く、リアルに、ダイレクトに私に響いた。
それ以来、フィンランドは行っていないが未だに私の一番好きな国になっている。

言葉の仕事だけど、言葉だけじゃない。
行動で示し、体験をつくりたい。
この忘れられない記憶が、そう私に心がけさせている。

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