リレーコラムについて

ケイドロ 暗示 現実

倉光徹治

昼下がり、公園のベンチに座っていた。

 春休みだろうか、東京都心にしては珍しく子どもたちが走り回って遊んでいた。背丈の異なる7、8人が神社に隣接する児童公園をまるで気化したヘリウム分子のように縦横無尽に駆け回っていた。耳に入ってくる「新六年生」「新二年生」という単語が自分とは別世界に暮らす彼らの生活を物語っていた。彼らは「ケイドロ」をしているようだった。ケイサツとドロボウ、二手のチームに別れて鬼ごっこをする遊びだ。ケイサツにつかまったドロボウは、「オリ」に入れられる。そして仲間のドロボウがケイサツの追っ手をかわし、「オリ」に入れられた仲間のドロボウにタッチすれば、仲間は一斉に解放できる。「オリ」といっても鉄格子もなければ南京錠もない、鉄棒の支柱の周りに描かれた丸い半径2m程度の円である。ドロボウを全て掴まれれば、ゲーム終了。たしかそんなルールだったと思う。

 子どもたちにはリーダーがいるようだった。最も背の高いメガネをかけた細身の少年だ。新六年生。彼は自らも走りながら大声で年下の子どもたちに指示を出していた。あっちに逃げたぞ、とか、あいつを終え、とか、そんな感じだ。

 桜が満開に近づいていた。気温もそんなに高くなく、気持ちのいい午後だった。とつぜん、リーダーの少年が語気を荒げて叫んだ。「ルールを守れ!」。世の中のあらゆる角という角を削って丸くしたような平和な公園に、その言葉はいくぶんか鋭利に響いた。なにごとかと視線を送ってみると、どうやらオリに捕まったドロボウの下級生が、仲間にタッチされていないのに勝手に逃げてしまったらしかった。公園にいた他の子どもたちや大人たちも一瞬、そのトゲのような言葉の方向に目線を集中させたが、トゲの内容が深刻でないことを確認すると、すぐにそれまでの行為に戻っていった。

 少年は勝手に逃げてしまった「新二年生」に向かって、こう言った。「守らなきゃいけないものは守らないといけない」。そして、強い口調で、「現実逃避をするな」と。

 11歳だか12歳のボキャブラリーで綴られた言葉だった。現実逃避、という言葉がおもしろかった。彼の言う現実とは、捕まったドロボウは仲間のドロボウにタッチされない限りオリから逃げてならないという「現実」であり、不文律だ。だがもちろん、オリとはただ地面に描かれた丸い円である。そこから外に出ることは、卵を割ってフライパンに落とすことよりカンタンだ。

 怒られた「新二年生」はうつむき加減でトボトボとオリの中に収監され、ドロボウとケイサツによる逃奔と追走という「現実」が再開された。

 「現実逃避をするな」という言葉が、その「現実」の外側のベンチに座る中年男の頭の中で膀胱に残された結石ように残っていた。

 どうして少年はオリから逃げてはいけなかったのだろうか。地面に描かれただけの高さ0cmのオリから逃げてはならないという「現実」は何によってつくられ、何によってそのカタチが保持されているのだろうか。

 それは我々の「現実」にもあてはまる。どうして人を殺してはいけないのだろうか。どうして食べ物を粗末にしてはいけないのだろうか。どうして愛する人を裏切ってはいけないのだろうか。

 我々は「健全な暗示」にかかっている。

 そしてその暗示によって、この世界はカタチを保ち、今日を終えて明日を迎えることができている。

 暗示は子どもの頃にかけられる。子どもが一つのおもちゃを取り合っているとき、大人は、「順番に遊びなさい」とか「譲り合いなさい」と暗示をかける。

 だが、仮にこんな現実があるとする。「欲しいものは相手を傷つけて取り上げなさい」。もちろんこんな親はいない。まるで子ども向けSF映画の悪役みたいな家族だ。そんな現実が構成する世界を想像するとおそろしくなる。おそろしくなることは、つまり健全なのだ。

 400年前、1000年前にこの国にかけられた暗示を考えてみると、ずいぶん今と内容は変わっていることに気づく。時間軸だけでなく地球上のどこか別の場所のことを考えてみても同じだ。暗示をかけられた現実。それを人々は社会や文化と呼んでいる。

 地球上で唯一暗示をかけられる種である人間にとって、暗示を善に向かわせ、質を高めてゆくことが進歩だと信じたい。

 そして時に、全員にかかっている暗示を覚まさせ、これまでとは違う暗示をかける人物が現れる。そんな人物を人々は天才や革命家と呼ぶ。

 そんなことを少年たちのケイドロの中に見ていた春の午後。あまりに長い時間、大の大人が公園のベンチで子どもたちを眺めていたのが怪しかったのだろうか。「ホンモノのケイサツ」から声をかけられた。

「あ、いや、ちょっと休憩を。怪しいものじゃないんです」

 まるで昭和時代の4コマ漫画の台詞のような説得力のない説明をすると、ホンモノのケイサツはまだ訝しげにこちらをじろじろ見ながら桜並木の向こうに去っていった。

 この現実で、ときどき淵に腰掛けて現実の外を見る。もちろん半径2mの外には出ない。ただ外を見るだけなら、それは自由だ。

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