リレーコラムについて

もや 北極星 地鳴り

倉光徹治

深夜0時過ぎに目が覚めた。

 窒息するような胸苦しさが上半身を締めつけていた。空調が暑すぎたのか、寝間着を着込み過ぎたせいだろうか。

 あるいは前日にアメリカ合衆国フロリダからヒューストンを経由し16時間のフライトを経験したせいだったのかもしれない。単純な時差ボケか。頭の中で0時を24に直し、そこからフロリダとの時差14を引くと10という数字が浮かび上がった。10時。むこうは朝だ。小学生1年生が1学期にもらう12色の絵の具セットに入っている「あおいろ」みたいに単純なフロリダの空。

 そんな能天気な青空とは対照的に、暗い寝室では胸苦しさに比例するように不安定で不快な感覚が全身を支配していった。「自分という存在が過去の自分から連続する自分ではない」という感覚。いまここで寝ている自分は誰なのか?その答えが分からなくなる。世界と自分の接点が暈けてゆく。身体の周りに空気のぶ厚い皮が幾層にも重なってゆき、自分の姿形が分からなくなる。ほんとうに今ここで目を覚ました自分は、37年前に生まれた自分に間違いないのか?その設問への回答に自信がなくなる。焦燥に駆られる。

 仮に魂に芯があって、それが塔のようなものだとすれば、塔の周りの湿原にゆっくりと「もや」が立ちこめてゆき、まわりの景色をホワイトアウトさせてゆく。そんなイメージ。現実という風景がどんどん見えなくなってゆき、距離感も掴めなくなる。

 じつはその現象は、初めて発現したわけではなかった。この何年かの間、幾度となく現れ、いつのまにか消えるということを繰り返していた。

 だがその夜は、これまでと違う点があった。「もや」の正体が見えたのだ。別の言い方をすれば発生源が分かったのだ。それは、2011年3月11日に起きたあの出来事だった。

 当時は東京にいた。地震や津波といった被害にあってはいない。あの日以来、人並みに放射能に気を使っていたりはするが、多くの傷ついた人々とは違い、なにも直接的な害を被ってはいない。

 だが、その「もや」の発生源は、6年が経ったその夜、直感的に分かったことだが、あの日のことだった。なぜそれ以来、「もや」が幾度となく現れたのか。それは、分からない。

 とにかくその不快感から解放されたいと、逃げるように小さなテラスに出た。東京の2月にしてはそんなに寒くない、すこし湿った空気だった。紺瑠璃の空を眺めた。前日に降った雨のせいか大気は澄んでいて東京にしては星が多く瞬いていた。
 何年か前に煙草をやめたので、とくにすることもなく、しばらく空を眺めていた。北斗七星が見えた。真ん中、両側から数えて4番目の星だけ見えなかったが、久しぶりに見る北斗七星だった。小学校の頃に習ったように柄杓の先の2つの星間の長さを何倍か伸ばした先に北極星があるはずだった。何倍だったっけ?思い出せなかった。5倍、いや6倍?手元にスマートフォンがなかったので検索をすることができなかった。だがなぜか検索をしたくない気がした。何倍でもいいか。目分量で柄杓の先の2星間の距離を計り、伸ばしていった。いち、に、さん、し…。視線を動かしてゆく。途中からその目分量すら曖昧で怪しくなっていったが、その先に、北極星と思われる星を発見した。その星は、渋谷のネオンが空に照射するフレアの中、なんだか居心地が悪そうにそこにいた。大昔の船乗りたちも目印に使えないような、北極星らしからぬ謙虚な明るさだった。まるで渋谷の若者たちで盛り上がるパーティ会場に隣接する古い屋敷に住む老人のような、肩身の狭さと静かな怒りがそこには感じられた。

 しばらくそんな哀れな北極星を眺めていたら、ゴオオオオオオ…という低い音が耳に入ってきた。こんな時間にジェット機が東京の上空を飛んでいるのだろうか、あるいは戦闘機のスクランブル発進か?音はなかなか消えない。通り過ぎる航空機のエンジン音にしては長過ぎるし姿も見えない。1分近くも同じ音量で響いている。地鳴りじゃないか?そんな憶測が脳裏をよぎった。大きな地震が来るのだろうか。嫌だな。でもそれが運命なら受け入れるしかない。来るなら来い。空を睨みつけた。いや、来ないでくれ、やっぱり。地鳴りはなかなか止まない。だんだんこれは尋常なことではないのではないかと不安になってきた。部屋に戻ろうか、ネットで東京の人々の声を検索してみようか。しばらく思案した。もう5分近くその音は続いていた。その間、ずっと空を睨んでいた。音は消えない。老骨の北極星も動かない。そして、あることに気づいた。その音はある場所から聞こえていることに。耳を澄ませてゆっくりとその場所に近づいた。そして確信した。それは家の外壁、テラスの壁についている通風口からエアコンの空気が外部に流れる音だった。なんだよ。

 きっと、疲れている。その原因が単なる時差ボケであろうと因果関係のはっきりしない「なにか」であろうと、結果として、疲れているのだ。

 目を覚ました猫が窓際からこちらを見ていた。その表情からはとくに心配している様子も感じられなかった。リビングに戻り、催促されるままに、散歩に出かけた。猫は廊下に出ると、いつものコースをいつもどおり歩いたり寝そべったりした。こちらもいつものように猫のペースに合わせて、ゆっくりゆっくりと歩を進めた。猫は身体を廊下に押しつけゴロゴロと転がっている。コンクリートの仕上げの質感を入念にチェックするかのように。なぜ猫はそんなことをするのだろうか。自分と世界の接点を確かめるためだろうか。

 薄ぼんやりとそんなことを考えていたら、いつの間にか「もや」は塔の周りからなくなり、深夜の澄んだ空気だけがそこに漂っていた。

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