リレーコラムについて

もう、20年近く、コピー書いてないです。

難波功士

 1996年春、私は東京を離れ、大学卒業以来12年ぶりに関西に舞い戻りました。広告代理店勤務から、大学教員へと転職するためです。学校近くにアパートを借り、もよりの銀行に口座も設けました。そして、新たな職場からの給与が、そこに振り込まれるようになりました。
 東京で使っていた口座を閉じてもよかったのですが、なんとなくそのままにしておきました。まだ、34歳。これからどう転ぶかわからんしなぁ。はたして新しい環境に適応できるんだろうか。われながら疑心暗鬼でした。なので、東京の店を完全にたたむわけには…、といった心境だったと思われます。東京コピーライターズクラブの会費は、その会社員時代の口座から引き落としになっていました。
 その後、東京の出版社などからお仕事いただいた際には、稿料・謝礼等の振り込み先として、東京の口座を指定してきました。でも、年々預金は目減りしていき、会費分の残金がなく引き落とせません…といった連絡を、TCC事務局からもらったこともあります。もうそろそろ潮時かなぁと思い、退会を覚悟していたのですが、その時どこからか入金があったのか、まだ会員でいます。その後、ちょっとまとまった印税などを頂戴したこともあるのですが、子どもたちがいろいろ物入りな時期にさしかかり、時々、その東京口座から生活費を補填しているので、またそのうち退会の危機が訪れるかもしれません。

 教員になって関西に移り住み、初めてゼミ生の選考した代が、鈴木契君たちでした。ビギナーズラックだったのか、なかなか面白い顔ぶれが揃ったように思います。
 それからずっと教員稼業です。こうした場に、さて何を書いたものやら、という感じです。でもまぁ、私のような境遇の会員も珍しいでしょうから、大学教員の日常みたいなことを素直に綴っていきます。あぁ、そういう世界もあるのかと、思っていただければ幸いです。
 
 企業で言うところの「正社員扱い」である専任教員の仕事は、基本的に3つです。研究、学生への教育、そして学校運営のための校務(の分担)。
 大学教員、特に文系のそれと言えば、週に数回、授業のある時だけ現れて、何やらわけのわからない、自分の研究の話をして帰って行く人、やたら夏休みの長い人といったイメージが、依然あるのかもしれません。でも、もうそんな牧歌的な職業ではないです。もちろん、10分刻みのアポイントメント、昼飯食べる時間もなかった、緊急事態発生! 今日も終電だ…みたいな広告業界的な慌しさはないですが、授業(準備)や会議・打ち合わせ等々で、けっこうスケジュールは埋まってしまいます。
 さて、先ほどの研究・教育・校務に話を戻すと、人によって得手不得手はあるのですが、これら3つは、大学教員である以上「規定演技」ってことです。しかも、その負担の量やら要求される水準は、年々上がっています。でも、それらをある程度クリアしていたら、あとはかなりフリーなのが、教員稼業のだいご味でしょう。会社組織のように、皆がピラミッドの頂点を目ざすわけではなく、何か一つ得意な領域があれば、それで居場所を確保できる感じがします。富士山型というよりは、八ヶ岳的な世界(このあたりは、大学によって事情はさまざまですが)。
 私の場合は、根っからの学者ではないので、「いろんなところで一般向けの文章も書き散らかす」ことを持ち味として、なんとか生き延びています。書評など、もろもろの注文原稿を断ることは、めったにありません。Yahoo!ニュース「個人」にも、時々アップしてます。なので、東京の口座は、今のところはサバイバルしています。その他、報酬あるものないもの含め、できるだけ幅広く仕事を受けるようにしています。必要とされているうちが花。お呼びがかかれば基本的には出動です。

 とまぁこれだけでは、大学教員の日常がどういったものか、ご理解いただきにくいでしょうから、数回に分けて述べていきたいと思います。

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