リレーコラムについて

十文字さんのモカ

加藤充彦

加藤充彦です。
福田くんからバトンを受け取りました。
パスワード忘れで、ログインできなかったので、
きょうから書きます。

タイトルにもあるように、
十文字さんのコーヒーが旨い、
という話です。

もうけっこう前からなので、
ご存じの方も多いと思いますが、
写真家の十文字美信さんは、
鎌倉のご自宅でカフェをやっています。

そのコーヒーがハンパなく美味しいんです。
もういちど、言いますよ。
ハ ン パなく、美味しいんですよ。

福田くんが紹介している
サードウェーブのお店がパリで1番なら、
十文字さんのコーヒーは、日本で1番です。
少なくとも僕が飲んだ時点では。

にもかかわらず、
この業界の人たち、特に僕の周りにいる人たちは、
この凄さを見過ごしている。
仕事でご一緒したり、
若手の演出の方は先生として接していたり、
いろいろな縁があり、
あのお店に行ったことがある人は多いんです。
でも、その人たちのことごとくが、
そういえば打合せでコーヒー出してくれたな、とか、
ケーキが美味しかった、とか
庭がきれい、とか、奥さまが素敵、とか
こないだ人生相談に言ったんだけど
私、コーヒー飲めないんで、とか。
いやいやいや、打合せとか人生相談してる場合じゃないでしょ、
そのコーヒーを前にして。

というレベルのコーヒーなんですけど、そこに
コーヒーという嗜好品の難しい立場、
鎌倉にあるカフェに人が求める幻想を、
感じざるを得ません。

これは食べログを見ても同様で、
まず、鎌倉、カフェ、総合ランキングで検索すると、
有名であること、
なんかそれっぽいサイドメニューの評価、
なんかいわゆるカフェっぽい雰囲気とかが評価基準に
なっていることが分かります。
1位に至っては、懐石料理の店ですからね。

さらに十文字さんのお店のレビューを見ても、
ある程度コーヒーそのものと真剣に向き合っている人は、
甘く見ても2人、厳密に言えば1人。
その1人も、味の嗜好はいわゆる
昭和の日本のコーヒー好きの方向性だったりして、
だったら銀座のあの老舗で飲んでいればいいのに、
と言いたくなります。

そう、圧倒的多数の人たちは、
鎌倉のカフェに、最先端のコーヒーの味を
求めている訳ではないのです。
言い換えれば、鎌倉、そしてカフェ、という幻影に、
あのコーヒーは埋もれてしまっているというのが実態です。

ここまで読んできた方の中には、
それはお前の主観に過ぎないのではないのか、
そもそもお前はどれだけコーヒーを飲んでいるんだ、
と疑念を抱かれている方もいらっしゃるかも知れません。
お前こそ、十文字さんという巨匠の幻影によって、
あのコーヒーの味を過大評価しているのではないのか、と。

確かに僕はコーヒーのプロではありません。
仕事はCMプランナー/コピーライターです。
だからこそ、眠い時、辛い時、悲しい時、苦しい時の、
コーヒーの苦さと旨さとは、
毎日、真剣に向き合ってきたという自負があります。

そして、昨年惜しまれつつ引退した、
南青山のあの大坊さんが、
その現役時代の最後の頃のある日、
ひとりでふらっと十文字さんのお店に来て、
あのコーヒーを飲んで、ひと言、
なるほど、と言って、
これは仕事として(コーヒーを本業として)やっていては、
出せない味ですね、と言って去って行ったそうです。

あの大坊さんがですよ。
引退するっていうんで、
糸井さんがほぼ日で特集したあの大坊さんですよ。

僕の味覚は信じられなくても、
大坊さん、ひいては、糸井さんの嗅覚を否定することは、
少なくともコピーライターであれば、できないですよね。

あのコーヒーは何がどう違うのか。
十文字さんのスペシャルはモカです。
豆自身に力のあるのは勿論ですが、
決定的に違うのは、焙煎です。

一般的に、というか前に書いたように、
日本では昭和の時代のモカは、
浅煎りで酸味を賞賛されることが多かったです。
しかし、大坊さんもそうであったように、
その後、日本の高級コーヒーも、世界の流れを追うように
深煎りへとシフトしていきます。

十文字さんのモカは、その先にあります。

深煎りのちょっと手前、
ほんとうにわずか手前に、
モカが甘い香りをまとう瞬間があります。
とにかくその1点を狙って、
全神経を研ぎ澄ませて焙煎する。
大坊さんよりも、数秒から数十秒手前なイメージ。
実際は余熱も計算するはずなので、
ほんとに数秒だと思います。

ドリップすると、砂糖もミルクも何も入っていないのに、
これがモカの実力なんだと驚くような、鼻に抜ける
栗のような甘い香り。
どこまでも透明感に溢れた味わいは、
飲み終われば、すっと消えて余韻だけが残ります。

極端な酸味や焦げ、えぐみがないので、
確かに印象は透明かも知れません。
でも少し意識すれば、誰でも感じられる、
はっきりとした甘い香り。
ラバッツアのカリタオロも
ここを目指していると思われますが、
大量生産品ではここまで透明にはなれない。
ましてや大坊さんをして、
本業としてやっていたらできない、
と言わしめる味がここにあります。

そう、十文字さんの本業はあくまで写真。
このモカは、その日の朝、
十文字さんが家にいて作業できた日にしか出されません。
鎌倉、カフェ、という幻影に埋もれているからこそ、
有名店のような数量ではないからこそ、実現できる味。

ある朝、十文字さんが起きて、
なんかメンドクサイな、と思ったら、
もう飲めなくなるかもしれないモカ。

ホントに、打合せとか人生相談とか、
してる場合じゃないと思います。

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