リレーコラムについて

東京都北九州市

原晋

 私は福岡県は北九州市の出身である。東京に初上陸を果たしたのは、小学6年生の時だと思う。家族旅行の途中で、原宿で初めてパスタを外食で食べたことしか憶えていない。それから中学の時に父親と1度、高校卒業時に1人で1度、1日だけ、というくらい。だから、大学受験と大学入学の時が、実質的な初上陸ということになる。
 前年に合格を果たした1人暮らしの友人宅を訪ねたときは、あまりの人の多さに、本気で「今日、祭りでもあるん?」と聞いてしまった。北九州市は、一応百万都市だった(最近ついに99万人になった)ので、人は多いと思っていたのだが、日常的なあの人の多さにはかなり驚かされた。大学の最寄駅での下車時もそうだ。車内の少し奥のほうにいた私は、最寄駅に着いた途端、「すみませーん、ここで降りまぁーす!」と大きな声で叫んで、人をかき分けかき分け、ドアが開く前にドア付近まで到達したにも関わらず、そこで8割くらいの人が下車し、ものすごく恥ずかしかった。誰か言ってくれればいいのに。東京は冷たい。
 次に驚いたのは、東京は山がないこと。私が20年を過ごしたところには、向かいに緑豊かな手向山(たむけやま)というのがあり、そこには宮本武蔵の墓があって、かの巌流島が見下ろせる。よく遊びに行っては、椎の実なんかを拾っていた。東京というところは、多摩のほうの山や、富士山が、遠くに見えるくらいで、山が日常の風景にない。最も高いのが、山じゃなくビルなのである。すごいところに来てしまった。そう思った。自分では、九州で2番目に人口が多い、都会に住んでいるとばかり思っていたので、このギャップには驚いた。東京に住むようになってから、「田舎モノで…」と言うのがすっかり癖になってしまった。
 でもなぜそんな東京を就職先に選んだのかと言えば、この職業があったからだ。要は、憧れだったのだ。東京にいなきゃ、コピーライターにはなれないと思っていたのだ。そんなことはないのだけど。大学2年の時、「広告論」の初回の授業で数本のテイストの違う作品を見せられ、「すべて岡康道という、同じ人の作品です」と言われたときの衝撃。アレがずっと尾を引いて、コピーライターになることばかり考えてきた。
 かといって宣伝会議に通うわけでもなく、広告学校へ行くわけでもなかった。そんなもの、あることさえ知らなかった。会社に入って希望すればなれるんだと思っていた。漠然とした憧れだけで就職し、コピーライター志望だと言いつづけて就職したら営業で、そのギャップのせいで、年に100回くらい辞めようと思ってた。それでもココにいたのは、ひたすら「コピーライターになりたい」という気持ちだった。営業時代というのは、「憧れに対して何にも手を施さなかったテメエへの天罰」だったのかもしれない。そう思って、休みなく働きながら、今度はちゃんと、コピーライターを目指して努力した。
 やっとコピーライターになれた。でも、まだまだ。これからもずっと憧れ続ける。そんな広告への憧れかたをしていること自体、やっぱりどこまで行っても田舎モンなんだろうなあ。結局、田舎モンであることが好きなんだろうなあ。

 東京は、住む場所としては、ホントに最低だと思う。その面で、東京は今も大嫌いだ。その反面、私なんかをコピーライターとして受け入れてくれているのは、東京のおかげだとも思う。だから、東京が少しだけ好きになれる。

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