ええ雑草
雑草が好きだ。
散歩中に「ええ雑草」に遭遇すると、しばらく立ち止まってしまう。
道路の亀裂から伸びていまではもじゃもじゃになっている雑草。
フェンスに絡まってボルダリング選手の両腕のようになっている雑草。
電話ボックスに踏みつぶされているように生えている雑草。
雑草のどこが僕を惹きつけてくるのだろうか。
雑草が持つ「自信」だと思った。
雑草の気持ちになってみる。雑草は「私はキレイだ。私は強い。私は楽しんでいる。私はとっくにここにいる」といっているように思える。
やかましいくらい伸びている雑草も、知らない間にスキマで成長している雑草も、伸びたいだけ伸び朽ちていくまでためらいがない。
その気持ちがそのまま形になったとき「ええ雑草」になる。
だが、多くの人は花のほうにより惹きつけられる。
花の気持ちになってみると、浮かんでくるのは「恥じらい」だ。「私は、無防備だ。私は風にゆれる。私は一過性の存在だ。私はもう散ってしまうかもしれない。私はそんなに見られたくはない」
世阿弥が著した『風姿花伝』にある「秘すれば花」とは、花の気持ちを翻訳した言葉なのかもしれない。人間にとって「美」という感情のルーツには、花のこの在り方がある。
だが、雑草にとっては、そんなことはおかまいなしだ。人間の「美」など知ったこっちゃない。
「ええ雑草」は、いつも僕にそう語る。
写真は家の近く。次は、栃木の雑草でも見に行くか!
