リレーコラムについて

海へ行きましょう

大津裕基

父は、私に敬語で話します。
父は、私が高校生になるまで毎朝キスをしてきました。
父は、私が大学生になったとき家を出てゆきました。

今日はそんな父の話を書きたいと思います。

シベリア抑留で文字通り身の凍えるような経験をした祖父は、
帰国後、シベリアよりは暖かい、それでも冬は極寒の地となる、
北海道は旭川で小さな工場を始めました。
石炭ストーブの、当時としては画期的な煙突を発明し、
またたく間に一財を成したそうです。
小さな工場が町一番の大工場となり、
日本が高度経済成長期に差し掛からんとする頃、
父は産まれました。

いわゆる「おぼっちゃん」として育った父は、
(実際にそう呼ばれていたそうです)
身の回りのことすべてをお手伝いさんがしてくれていたので、
母親の手料理を食べたことがなかったそうです。
東京へ出て2つの大学に延べ9年間通った父は、
祖父の斡旋で札幌の建築事務所に転がり込みました。

少し変わった人だったのだろうと、
思い出しうる最も古い記憶の中の父と
年もほとんど変わらなくなって、今そう思います。

ある日突然仕事を辞めたり、
相談もなく引っ越しを決めたり、
テロリストと勘違いされて拘留されたりと、
母は相当な気苦労が絶えなかったことでしょう。

父と母は共通の友人を通して知り合いました。
喫茶店のボックス席に座る4人の若者。
初対面の場にありがちな、ぎこちない空気が流れる中、
コーヒーを注文した男に店員は訊ねました。
「ミルクとお砂糖はおつけしますか?」
「僕は母乳がいいなあ。」
それが私の父でした。

母は当然のごとく、良い印象を抱かなかったようですが、
父はまったくお構いなし。
出会った翌日には、祖父が買ってくれたスポーツカーを飛ばして、
母の実家を訪れ結婚の承諾を取る始末。
母も若かったのでしょう、父の狂気とも言える情熱にほだされ、
やがてふたりは結婚。
2年後に姉が、
その3年後に私が産まれました。

先にも書いた通り、
毎朝キスをしてくるぐらいですから
子どもには大変甘い父でした。
唯一叱られたのは中学生の時、
あれはK−1グランプリの翌日のことでした。
前夜の興奮さめやらない私は校内で友人とK−1ごっこをし、
頭をぱっくり割ってしまい病院へと運ばれました。
病院に駆けつけた父は、ベンチに座る私の横へ腰を下ろすと
前を向いたままぼそっと言いました。
「そういうことしちゃダメですよ。」
それだけでした。
これが父に叱られた最初で最後の出来事です。

私が野球を始めると、
すぐさま車庫をピッチング練習場に改装。
父の車は年中野ざらしになりました。
中学生になると、
「お前もいろいろあることでしょうから」と言って、
母にばれないようにこっそりと小遣いをくれました。

そんな愛情さえも疎ましく感じてしまうのが
子どもというものなのだと思います。
高校受験をひと月後に控えた私は反抗期真っ盛りでした。
日曜の午後、二階の子ども部屋で机に向かっている私のところへ
父がやってきました。
そしてこう言ったのです。
「裕基、海へ行きましょう。」

私は、この人は一体何を言っているんだろうと
あっけにとられると同時に、
この大変な時期にのんきなことを言いやがってと腹が立ち、
無言で父を部屋から追い出してしまいました。

どうして私は海へ行かなかったのだろう。
海へ行くなんてたった数時間のことなのに。
あの時、素直に海へ行っていたら、
父とどんな会話をしたのだろう。

女性のみなさまへ。
後悔しても時間は戻りません。父も、戻りません。
ですから、もし私があなたを海へと誘ったら、
断ったり、ましてや既読スルーなどなさらぬよう。
波の音に合わせて大人の会話を楽しみましょう。
もちろん、コーヒーに母乳もいりませんから。

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