リレーコラムについて

1時間目は必ず遅刻して行く高校生だった

須田和博

中学生までは、勉強もできる優等生でしたが、

高校に入って、完全にドロップアウトしました。

 

高校入学と同時に、「美術部」に入り、

友達に誘われるままに、「映画研究同好会」に入りました。

 

この美術部で、1学年上の会田誠先輩に出会って、「美大」の存在を知り、

この映研で、3学年上の山賀博之先輩(「オネアミスの翼」監督)の残していった、

映写機や8ミリカメラなどの機材を使わせてもらえるようになりました。

 

それから毎日、毎晩、ほぼ徹夜で「絵コンテ」を描き、

昼間の授業中は、ひたすら寝ていました。

 

自分でも、どうして、そんな生活をしていたのか、よく覚えていないのですが、

毎日、毎朝、1時間目は必ず遅刻して、2時間目との間の休み時間に、

教室に入っていた、ような記憶があります。

 

しかも、午後になると学校を抜けて、映画を見に行くのも割と日常茶飯事。

それ以外、放課後、美術室に行って絵を描いたり、映研のたまり場の教室に行って、

当時のサンライズ黄金時代のアニメについて、熱く語ったりした以外、

何やってたか、とんと覚えていないのですが、

 

それでも、先生に注意されたり、退学にされたりせずに、

存在や活動を認めてもらえて、文化祭の時には、自主映画の上映会などをして、

褒めてもらえたりしていました。

 

のちに多摩美に進学した時、多摩美の方が「普通」に感じられるほど、

不思議に充実した「県立新潟南高校」での3年間でした。

 

この時、高校3年の秋の文化祭で上映するための8ミリ映画を

夏休みからずっと作り続けていたのですが、

 

3年の秋になっても一切、受験勉強をせず、映画を作り続けていた自分は、

同じ映研の友達にも、さすがに、あきれられていました。

 

ですが結局、この時、作っていた自主映画が、翌年、浪人の年の6月に、

「PFF(ぴあフィルムフェスティバル)’85」に入選したことで、

心折れずに美大受験をがんばれたワケなので、

やはり途中で止めないで、完成させて良かったな、と、いまでも、思います。

 

完成させたい、仕上げたい、作り切りたい、と思うものは、

たとえ周りが何と言おうとも、やりきっておいた方が、後々、絶対に良い。

 

いまも、そう思う、ゆえんです。

 

このように、4回のコラムで、自分の生まれと、それに基づく性格、

幼少期から思春期の中で、身についていった傾向など、振り返って紹介してみて、

 

「自分と広告」とは、運命的に結びついている間柄なんだな、ということを、

再確認しました。

 

 

(須田の週、全4回、お読みいただきまして、ありがとうございました。)

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