リレーコラムについて

汝、つねにキメるべし

尾上永晃

この曲が好きで、こういうことをやってみたかったので思ってることを羅列します。聴きながら読んでください。別に何かに怒ったりしてるとかってよりは、純粋な疑問や思いです。

OOHで何かしらの設定をまとったタレントがこっちを見がちなのはなぜなのか。CMが認知率高かった頃はあれでストーリーが伝わるから良かったけどそうじゃない状況でみるとむしろ伝達を疎外しているのではないか。

OOHの視認時間は0.5秒だからその時間で分かるやつをって20年くらい前から言われてるけど、今はスマホあるから撮影されて長いものもシェアされて読まれるってこともあるんじゃないのか。そういうルールって日々変わるのではないか。でも、ルールを知っておくことは大事。

新聞は世代が上だから若い人に届かないっていうけどスマホで撮影して広がるからむしろ話題の起点になる。と言われるけどじゃあスマホで撮られるから新聞がいいのか。なんで看板じゃダメなのか。新聞の物性がリアリティのある発言として捉えられるからとか、ニュース性のあるメディアゆえにニュースと親和性が高いとかって見方もあるのではないか。あとやっぱ普通に刷り上がったのみるとアガります。

ラジオは爆笑問題とマヂカルラブリーを聴いています。合間に流れるCMは賞で知るようなものでないのですが、賞をとるような面白いCMはどの番組で流れがちとかあるのでしょうか。

CMではシズルだけじゃなくてストーリーや設定が必要だというのはなぜなのか。それは本質的にそうなのか。願望なのか(私は設定が好き派です)。ハードセルとソフトセルの繰り返しなだけで時代によって変わるって話なのか。いまシズル広告が多いのは、高画質大画面の時代においてシズルがストーリーに勝ってしまっているという見方も出来ないか。逆にスマホはシズルが効きづらいからストーリーが強いとかメディアサイズによって変わる説ありませんか。

かといって商品が売れるだけでいいのか。商品を売るという活動は、ただの消費だけに終わらず何かその結果心が豊かになれるような視点とかを提供した方が好かれるのではないか。40年前の本で、おいしい生活は視点の提供で豊かさを増やしたと評されていた。発見されていない感情や豊かさはまだまだありそう。

CM好感度って本当に好感度なのか。人気タレントxわかりやすい体験x有名商品の掛け算なのではないか。と栗田さんが言っていました。ちなみに破壊力=握力x体重xスピードです。

人気タレントを活用すると話題量は増えるけどそれは結局ファンの閾値を出ないのではないか。でも数値的には安心できるし、そもそも人気タレントは人気なだけあってすべての技量が高いとよく思います。

同時に、広がる人気とそうじゃない人気があるから特性をちゃんとみないとなとも思います。

タレントとインフルエンサーの違いってなんなのだろうか。インフルエンサーは自らのストーリーをつむぎ専門分野においてファンを作って登っていく存在で、タレントはストーリーではなくタレント=才能を見出されて技能職として役者だったりバラエティだったりで力を発揮する存在だと思っていたけど全員がストーリーをシェアする時代においてその違いってなんなのか。どっちにせよ、その人のストーリーややりたいことはあるはずだから、そこに寄与する広告で肩を組めた方がいいんじゃないか。広告はタレントやインフルエンサーが夢をかなえるための階段の一つという見え方で機能してく未来もある。

なんでキャンペーンは1クールでカウントするのか。別にうまくいっていたら100年そのままでもいいのでは。普通に生きててクールは意識しないというのに。たとえば1.3クールにしたらズレて目立つのではないか。リンゴスターは左利きを矯正して右利きにしたから絶妙にズレが生じてそれが独特なグルーヴを生むらしいです。

これからはバズ動画だ。これからはデータドリブンだ。これからはコンテンツだ。これからはD2Cだ。これからの嵐の中で忘れない。入社した頃は、これからはmixiアプリだと言われていたことを…。これからが生まれたらこれまでを切り落とすのでなく、これまでも大事にしてパラレルに目的と手法を考えながら手法たくさんあるんだと思いながらやれた方が楽しいのではないでしょうか。

それにしても、これからはこうだという話がこんなに頻発するのは広告業界だからなのか。語られるこれからが話者にとって利他的か利己的かを見極めないと踊らされてしまいがち。というかそんなシンプルにこれからって分けられるものってあるのか。

なんでもかんでもアップデートと言うけど、そんな簡単に判断できるのだろうか。というか誰視点なんだろうか。資本主義に対してはダウングレードが求められ始めてるから、そういうコミュニケーションもあるのかも。

なんでもかんでも共感と言うけど、共感できないものごとについて考えて理解したときのほうがつながりって強くなったりしませんか。でも共感できない広告っていうとやばそう。

なんでもかんでも、なんたらマーケティングっていうのはあるルールで全てを整理しようとしすぎてはいないか。

なんでブランドを考えるときにミッションとかビジョンを定めないといけないのか。それがない時代の会社はどうやっていたのか。むしろ言語化できない価値を共有する組織体の方が強いという見方はないか。

なんで意見広告が増えているのか。時代が変わる節目だからなのか。シンプルに社会性メディアことソーシャルメディアとの相性がいいからなのか。40年前の広告の本でも意見広告が増えてきたと書いてあった。そこには社会不安が広がると増えると書いてある。同時に意見広告が増えすぎると耳を塞ぐ人も増えるとも書いてある。気付いたらループする世界を生きていた件か。どうしたら耳を塞ぐ手をどけてもらえるのか。

かといって、しょうもないものが変わるために声をあげる手法も間違いなく大事。意味がないなんてことはない。雨だれ石を穿つ。では、石の上にガードを置かれたらどうすればいいのかと最近よく思います。

これからは社会課題を扱う広告じゃないとダメみたいな論調があるけど、そういうのもあっていいし、そうじゃないのもあっていいってくらいがリアルなんじゃないか。なぜ0か1かで議論されがちなのか。0.3くらいのグレーさで言うと笑わせる広告だって実は社会課題を一部解決しているのではないか。過去あーやばい仕事終わらんって絶望してる時に先輩が変な絡み方してきて笑っちゃって元気になったことがありました。因果はシンプルとは限らないのではないか。

大体、自分が課題の原因の可能性だってあるわけだし、リアリティをどうやって自分におろすかというテーマも大事だと思います。

パーパスって100年企業とかは当たり前にやってたことなのではないか。地産地消の考え方もそうだけど、実はすでに国内でやられていたものなのに新概念みたいにノーガードで受け入れる的なことが多いのは黒船以降のものなのか。

問題を発見してきて社会記号化することが話題を生み出すという手法があったけど、問題が増えすぎた問題というものもあるのではないか。その問題を企業が扱うという場合、ブランドの行動指針と合っていて永続的に解決するでもない限りはただ不安を煽ってるだけという見方はないか。ベネトンのトスカーニばりに揉めてるところに出て行って議論するくらいの覚悟がないと難しいのではないか。すごかったです「広告は私たちに微笑みかける死体」という本。

話題化の公式とか法則みたいなのが生まれがちだけど、それに乗っかったら結局同じようなものが溢れて目立たなくて広告として埋没するだけなのではないか。ハウトゥ本は手法を陳腐化させてはいないか。広告って同化するのが一番効果なくすはずですし。これからはこれこれだ、にはその危険があるのでは。

広告を作品というのは良くないという論調があるけど、それくらいの気概で望んだ方がカラーが出るしいい面もあるのではないか。広告は企業のものだという前提で、その企業が誰かと一緒に一人じゃ到達できない視点を獲得しようとする場合は。シンプルに仕事として処理するので良いタイプの仕事はAIがやるんじゃないか。余談ですが、AIはメタ認知の技能が弱いのでメタを司るCDの技能は代替不可能そう。ですが↓

100案出すべしという不文律が古来よりあって、今もあるか知らないけれど、新人が「AIに10000案考えさせてそこから過去の広告の話題量や効果のパターンを学習したAIに選別させて、さらにユーザー調査もかけた100案です!」といって案を持ってきたらどうしたらいいのか。それでいいじゃんって思いそう。

でも人間にしか書けないものも間違いなくあるはずで、それってなんなのか。

資本主義が分業を推し進めて生産手段を人から奪ったと言う。広告ももっと生産の分業を飛び越えてもいいのではないか。デジタルやっていてマスもやるようになったから思うのは、マスは産業として成熟しすぎていてバグみたいな仕事が発生しづらいのではないかということ。手弁当なサイトで先輩が出てきたりとかしてましたからね。家の改装でパテ塗ったりしててそう思いました。

コピーは何のために存在するのか。なくてもよくない?って思いながら隠してみるとわりと成り立ったりする。でも、コピーがあることで話者の人格が現れて好きになれると栗田さんが言っていました。

ビートルズがただのバンドであるように、広告は所詮ただの広告なのではないか。

できることはいろいろあるけれど、同時にあまり意思を高く持ちすぎると、相手もそうだと勘違いして勝手に動いてくれると思ってしまう。でも、デジタルでよく言われていたのはボタンひとつ押すのすら面倒だと思う人にどう動いてもらうか。それくらいみんな広告に興味ないし、面倒だと思ってるし動きたくない。そこからさてどうするかって考えるのがこれまで広告が培ってきた技術だと思うのですが、ソーシャルである程度手法が確率されたりすると、そこそこ数字が出ちゃったりするので危険だなとも感じるときもあります。動いてるのは結局関心ある人たちだけということが多い。どうやったら関係ない人に振り向いてもらえるのかという工夫は大事にしていきたいなと思うことが増えました。なんと!そんな工夫がたくさん載っているTCC年鑑2020発売中!

一体なんでこんな与太話みたいなことを書いているのか。保坂和志が「地鳴き、小鳥みたいな」で人は考えるとき散文的でそれを整理して言葉にするとき何かを失う的なことを実験していたけど、そんな感じということでご勘弁ください。あと、本当はまとめたかったけどまとまりづらかったし、更新全然できていないプレッシャーでリアルの打ち合わせでみんなで話していたような悶々トピックの羅列にしちゃいました。やはり生で人と話してないと何かが澱のようにたまっていっている感覚があります。

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