リレーコラムについて

阿呆の逃亡

三島邦彦

今は昔。

神無月の夜。阿呆は浅草を走っていた。

50メートルほど後ろには阿呆を追いかける浮浪者がいた。

なぜこういうことになったのか。月夜を駆けながら阿呆は泣きそうだった。

 

遡ること2時間前。

 

新入社員の阿呆は営業に配属されて数ヶ月が経ったもののいまだに右も左もわからぬままにデスクで鼻を垂らしながら雑用をこなしていた。

 

その雑用というのは、中東の某国からメールで届く見積もり書の金額を現地通貨から一度米ドルに直し、さらに日本円に直すというもの。

 

エクセルと電卓を用いてダブルチェックしようとすると、何度やっても数字が合わない。エクセルの使い方が間違っているのか、電卓の使い方が間違っているのか、それともその両方が間違っているのか、阿呆は闇の中にいた。

 

そんな折、同じ会社のコピーライターの先輩N氏から浅草の落語会に誘われた。

 

阿呆は喜びながらも、どうも間に合わなさそうだという気持ちから、

「仕事が終わってから追いかけます。ギリギリ間に合うと思います。」と答えた。

 

生意気にも忙しぶった阿呆はその日の仕事を半ば諦め気味に終えて、浅草に向かった。浅草寺の境内を抜けたところにある浅草見番と呼ばれる場所が会場だった。

 

早足で浅草の仲見世通りを抜け、浅草寺の境内をぐいぐいと進んでいる時、

ふと遠くから声が聞こえた。

 

「センパーイ」

 

振り向くとホームレス然とした50がらみの男が手を振って近づいてくる。

 

「センパーイ。寒いっすねえ。」

 

阿呆は答えた。

「いえ、僕は先輩ではないです。むしろ、先輩を待たせているんです。」

 

阿呆は歩みを止めなかった。

 

ホームレス「センパイ、そんなこと言わずに。飲みに行きましょうよ。」

 

阿呆   「いや、先輩じゃないですし、本当の先輩が待ってるんです。」

 

ホームレス「俺、リーマンショックで解雇されちゃったんですよ。寒いんですよ。」

 

阿呆   「それは大変ですね」

 

ホームレス「寒いんで、飲み行きましょうよ。」

 

阿呆   「飲みに行きたいのは山々なんですが、今日は無理なんです」

 

ホームレス「俺、今日はおごっちゃいますよ。」

 

阿呆   「それは無理だと思います。」

 

ホームレス「センパーイ。歩くの早いっすよ。」

 

阿呆   「急いでるので」

 

ホームレス「ちょっと待ってくださいよ。飲みましょうよ。」

 

少し間が空いて、もういなくなったかなと思い後ろを振り向くと、

 

「てめーーこのヤローーー!!!」

 

怒声を発しながら走るホームレスが迫ってきていた。

 

 

うわ。ホームレスの人が怒ってるとこ初めて見た。

と思うと同時に、これは捕まったらたまらんと阿呆は走り出した。

 

浅草の道を走るスーツ姿の若造と追いかけるホームレス。

 

通りには人手があまりなかったので走りやすく、

スーツに革靴ではあったが全速力で走った。駆け抜けて、駆け抜けて、駆け抜けた。

 

この光景に何かを察してくれたのか、自転車に乗っていたおじさんが阿呆の目の前に停まり、後ろの荷台を指差し「乗るかい?」と声をかけてくれた。

 

浅草の人情を感じた。

 

しかしこのおじさんと二人乗りでどこに行こうというのか。

 

「大丈夫です。」阿呆は断り走り続けた。

 

阿呆は走った。浅草の街を無我夢中で駆け抜けた。

落語会の会場である浅草見番の前はとっくの昔に通り過ぎていた。

それでも阿呆は走り続けた。前だけを見ていた。

 

追いかけてくる男を振り切るため、時に右に、時に左に角を曲がった。

もう自分でもどこを走っているのかがわからなくなっていた。

 

ここまでくれば大丈夫か。

気づくと妖艶なネオンサインがきらめいていた。

そう、阿呆は吉原に立っていた。

 

携帯電話の電池は切れ、

帰る方角もわからず、

落語会に間に合う希望も失った阿呆は

あてどなく歩き続けた。

どれほどの時間が経ったのか、やっと浅草見番を見つけた。

締めの座興として落語家が日本舞踊を舞っているのが目に入った。

落語会はすでに終わっていた。

 

出口で先輩の姿を見つけ、かくかくしかじか(ホームレスに追いかけられて遅刻しました)と謝罪した。

 

心やさしき先輩N氏は「お前になら勝てると思ったんだろうな。」と許してくれた。

 

帰り道、浅草寺の深い闇の中にあのホームレスがいるのではないかとドキドキした。もう落語会は終わったから謝罪して飲みにいってもいいと思った。しかし闇はただの空っぽだった。

 

それから13年の月日が流れた。

阿呆は今も心のどこかで、あのホームレスから逃げ続けているような気がしている。

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