リレーコラムについて

母の話1

佐藤朝子

例えば、親が用意してくれた短大の受験料を全部遊びに使って、
受験もせず、親には「落ちた」と報告するような人を、あなたはどう思うだろう。
私は、どうかと思う。しょーもないことする奴がおるねんな、と呆れる。
ただ、他人事ではない。
我が母の実話だから。

母は、なんというか、衝動的な人だ。
愛する親なので一応肩を持つと、真っ直ぐな人、とも言える。
ちなみに受験せずニートになった母は、5月半ば頃に「あれ?あたし何もしていない…?」とようやく気づいて、父親(私の祖父)の知り合いが経営する美容学校に無理やり途中入学させてもらい、その後、美容師になった。
いやぁ母さん、若気の至りやね〜。で片付けられたらいいのだが、全然若気のせいじゃなく、結婚し親となってからも母は変わらず破天荒なままだった。

元々ギャンブルが好きな人だ。
私と兄は小さな頃「お馬さん観に行こう」と言われ牧場ではなく競馬場に連れて行かれた。
小学生の頃はパチンコに通う母についていき、床に落ちている玉を拾うのが好きだった。たくさん集めると母は褒めてくれた。
中学生になると雀荘にも同伴した。知らないおっちゃんたちと荒い言葉を吐きながら麻雀する母を横目に、雀荘のおばちゃんが作った焼きそばを食べ、宿題をした。

ヘビースモーカーだったが、お酒は一滴も飲めない。でもよく呑みに行っていた。
母はアルコールを分解できない体質なので正真正銘の下戸だったが、その場にいる誰よりもテンションが高くイカれたノリで朝まで突っ走るので、彼女がシラフだと信じない人たちもたくさんいた。
私が中3〜高1くらいのころ、よく一緒にスナックに行った。
場末のスナックで、ママとママの愛人のおっさんの痴話喧嘩を聞きながら、母と二人ウーロン茶を飲んだ。
私は歌が得意だったので、カラオケで昭和歌謡を入れておっさんたちに披露した。その様子を母はいつも満足げに見ていた。
雀荘でもスナックでも、「母親と違って真面目で出来のいい娘」をみんなに見せるのが母は好きだった。
「勉強ばっかせんと、タバコでも夜遊びでもなんでも好きなことしいや」と口ではいっていたが、それに反抗して勉強する私を見て母は喜んだ。
だから私は「真面目で出来がいいのに破天荒な母への許容力がある稀有な娘」をずっとやってきた。

こう書くと、なんだか複雑な家庭に育ったように見えたかもしれないが、全然そうじゃない。
上記は全部事実だけど、その上で、我が家は笑いの絶えない明るく幸せな家庭だった。
父は物静かなめちゃくちゃ普通の人だった。母はちょっと普通じゃなかったが、単に夜遊びが好きなだけで男女の揉め事的なことは全くなかったし(そういうことには1ミリも興味がないそうだ)、兄と私と弟の3人は、母の豪速球のような愛情をなんとか受け止めながら、それなりに真っ当に育った。

時代的に当たり前だが、バキバキの家父長制の田舎の家で育った母なので、アウトローな個性を持ちつつも、一生懸命社会規範に沿おうとする健気な一面もあった。
結婚と同時に母は仕事を辞めた。男は仕事で女は家庭が当たり前であり理想であった時代、父の両親にも当然のように家庭に入ることを求められた。
兄を産んだ後、離婚して田舎に戻り子育てを祖父母に全振りして仕事しまくることも検討したらしいが、慣れない子育てに必死になっているうちに第2子である私を身籠ったから離婚はやめたそうだ。

気が強く喧嘩っ早いが、愛情深く子どもが好きな人で、めっちゃグレてる子にも普通に話しかけたりするので、若者からは好かれていた。
よく近所の子どもたちのお泊まり会を開いてくれたし、よその子にもまとめて夕飯をふるまったりしていた。
ミシンでドレスを作ったり、髪を丁寧に結ってくれたり、お菓子を作ってくれたり、昭和の素敵なお母さん的なこともたくさんしてくれたし、子どもと一緒になって遊んでくれたりもした。
ファミコンが大流行した時、子どもたちは誰が一番早くスーパーマリオをクリアできるか夢中で競い合った。そんな中、母は徹夜という大人にしかできない離れ技を使い、誰よりも早くピーチ姫を救出した。マリオの後はボンバーマンにハマって徹夜していた。

父の両親(私の祖父母)と二世帯住宅で同居し、介護し、二人を最後までしっかり看取った。
老人に対しては徹底的に真摯な人だった。現在77歳となり自分もしっかり老人になった今でも、周りで弱っている老人を見かけるとすぐ寄り添って世話をやく。
人を傷つけることと同じくらい人を助けることを自然にできる人。
愛が深い。業も深い。執念深い。罪深い。マリアナ海溝ばりに全部深い。だから、ややこしい。

私が20歳の時。深夜、スナックからの帰り道で母は車に轢かれて重傷を負った。
その頃、父と母の関係はかなり悪かった。バブル崩壊後、父のやっていた小さな会社はどんどん傾いていき借金が膨らんで倒産した。祖父母を看取った後、母はタガが外れて前よりもっと夜遊びをするようになった。父も昼からお酒を飲んでいた。
そんな中、母は事故に遭った。
連絡を受け病院に行くと、母は顔の左半分と左半身全体を骨折しており、ぐしゃぐしゃの顔で集中治療室のベットに横たわっていた。
私に気付くと震える手で酸素マスクを外し、懸命に言葉を紡いだ。
「あーちゃん……車と喧嘩したら…負けるで」
私は泣きながら「そらそやろ」と答えた。

そんな母だが、なんとか一命を取り留め、足に少しだけ障害が残ったものの今は元気に暮らしている。
自由奔放な10~20代が第1章、個性に反し必死にいい母いい嫁であろうと頑張った30~40代が第2章だとすると、
50歳で事故に遭い10年の閑話休題を挟んだ後、60歳〜現在が、母の人生の第3章だ。
それは母にとっての初孫、私が長女を産んだところから始まる。

その話は、また明日。

 

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