於喫煙室
キィー
・・・・カチッ、カチッ
スパーーーーーーーーーー・・・・・・
キィー
P「・・・あれ?監督?監督じゃないですか」
岩崎「おお!お疲れ様です!」
P「ご無沙汰っすね~~」
岩崎「ですねですね!いやあ~~~・・・」
・・・・・・・・・・・・・
P「あ、あれ見ましたよ、あのーなんか映画、ベルリンの!」
岩崎「ああ、あれ。すません」
P「なんか受賞?されてましたよね。いやあ、おめでとうございます!」
岩崎「ありがとうございます、いやほんと、ラッキーパンチというか…」
P「いやでもすごいですよ、トレインチャンネルで監督出てて、写真撮っちゃいましたもん、僕」
岩崎「いやあ・・・ははは・・・・」
P「監督やっぱあれですか、映画のほういっちゃうんですか?」
いかないよ。
これめっちゃ宣言しておきたい、いかない。
これからも全然映画は撮ると思う。けれどこの作業、消費するエネルギーがあまりにも莫大すぎる。絶えず内省し、長期間一つの物語と向き合う根気、フィジカルな拘束日数、お金と時間をかけて人が観に来るプレッシャー、生半可でない。とりわけ自分は、作品にしてまで主張したいことがないから、それを掘り起こすのにとにかく難儀した。
与件に対して回答を用意する作業は複雑で一筋縄でないけど、ちょっとお気楽な部分もあったなと今は思う。ゆえに、なまけようと思えば、なまけられてしまうのだな、とも。責任の所在を曖昧にしやすいし、あらかじめ用意されているものが多すぎるから。映画は材料から自分で採集せねばならないし。
そういう様々なトレードオフがあるから、広告と映画は全くもって地続きではないと思う。稼働する筋肉が異なるというか、最適な”構え”がそもそも違う。広告が相手の蹴りをカットしやすい重心を後ろに下げたムエタイみたいなスタイルだとしたら、映画は重心を前に置いた、インファイトに徹するハードパンチャーといった印象だ。打たれ強くないと厳しい。
・・・これだと映画はストイックでツレエ!って印象になっちゃうかもなのだが、それは意図していなくて、どちらかというとシンプルに、広告作る方が楽しいから、そっちいきたくないんですよね。ある程度やってきたからってのもあるんだろうけど、企画さえ面白ければ、どんなにハードでもわりと嬉々として気に取り組める。向こうから飛んでくる球を打ち返すのは、球をこちらから投げるよりも爽快感がある。
だから思うんだけれども。
よく広告あがりの映画監督がメディアとかで、制約ある環境でのものづくりから解放されたエネルギー/作家性の爆発、みたいに論じられているけども。これ、本当なのだろうか。それはそれ、これはこれではないのか。
「この作品は、CM的な制約や、抑圧から解放されたエネルギーから産み出されたものですか?」
「はい、この作品は、CM的な制約や、抑圧から解放されたエネルギーから産み出されたものです」
そういう言質を実際に取ったのか、と問いたい。
他業種の人間と話していると、広告は強いられて作るものだ、だからクリエイターは抑圧を受けている、という偏見を浴びることがある。それは先入観でしかなくて、自分の周りには無邪気に、でもひたむきに目前の仕事に取り組む人がたくさんいるぜ!と伝えたい。
そしてそういう無邪気でストイックな戦友たちと、これからも並走していけるよう、CMディレクター頑張っていきたい。