リレーコラムについて

残るもの

岩崎裕介

大学時代、演劇に熱中していた。

 

 

それはもう狂ったようにやっていた。だから留年もした。大学時代5年間の記憶のほとんどが、演劇で埋め尽くされている。

 

 

でもそこから迷いなく映像の道へ行った。

理由は、残らねーからだ。

 

 

本音を突き合わせながら、毎日稽古に励む。甲斐甲斐しく台詞や段取りを覚えて、本番に臨む。劇場に来てくれた人だけがそれを観て、あとはもう消滅する。あまりに刹那的だ。

 

その刹那の魂の躍動が良いのだ、みたいな立場の人もいるんだけど、その時の自分の実感としては、頑張りと報酬がぜんぜん比例していねーだろ、というのが本音だった。シンプルにもっと多くの人に見てほしかった気もする。そこからずっと「残る」ことに固執していた。そんな思いから、成果物がデータとして残る映像業界へやってきた。

 

 

映像は残ると、そう思っていた。でも現代においては演劇よりも、CMの方が残らなかった。

 

 

CMは新しい情報を告知するから、常に新しくあらねばならない。新商品やサービスそのものが持つ新規性を深掘っていけば、必然的に新しい視点が生まれそうなものだが、今現在の企画の新しさのほとんどは、社会にすでに存在する新しいものにフリーライドすることで担保されていた。それは一瞬で消費され、一瞬で古くなる。企画の軸が時代性や流行に偏重したものばかりでは、データとして残っても、人々の記憶に定着することはない、と悟った。

 

 

ここで気付いたのは、自分の固執した「残る」というのは、字義通りデータとして保存される、ということではなく、人々の心に「残る」ということだった。

 

 

こないだ上司から、「新卒の面談で、岩崎のCMを観て新社受けようと思ったって子がパラパラいたよ」と言われた。

 

 

めっちゃ嬉しかった。ACC受賞より、TCC受賞より、ギャラクシー賞受賞より、ベルリン受賞より嬉しかった。残っとるやんと、残って人生かわっとるやんと。あーやっぱ自分はこれだなと思った。

 

 

AIと戦争以降、ものをつくることの意味が問い直されている気がする。そもそも作る意味なんてあるのだっけと、半狂乱で全てを投げ出してどこかへ走り去りたくなる時もある。

 

 

でも残るものが作りたくて、映像業界にやってきた。10年くらい経つけど、意外と一貫してるし、馬車馬のように働いてるけど、心はまだ死んでねー。人々の心に残るものは、心を稼働させねば作れない。これからもたえず心を稼働させて、残るものを作るぞ〜。

 

 

なんだか全体的に筆圧が強くなってしまった。トンマナあってる?これ。もっとシャクティマットとか、マジック:ザ・ギャザリングの話とかしようと思ってたのにな。言葉がでかく、うるさくて、不快に思われた方がいたら、すみません。

 

 

来週は、入社年がたしか同期で、ベイビーのころよく苦楽を共にしていた、今は全然一緒に仕事する機会ないけど、それでも時々あいつ元気かしらと想いを馳せる、櫻井瞭くんに渡します。

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