1989年
趣味で
Tシャツを
つくっている。
中3からはじめて
なんだかんだで
35年つくり続けている。
きっかけは
宮川大助・花子の
花子さんだった。
花子さんが
テレビの5分番組で
保育園の娘のパンツに
名前を書く代わりに
似顔絵を描いている
と紹介していた。
染色マジックを使えば
洗濯しても
落ちないんです。
これを使えば
Tシャツを
オリジナルでつくれる
と中学3年生の
岩田少年は考えた。
1989年。
まだユニクロもない時代。
(少なくともうちの近所にはなかった)
肌着のような
白Tシャツを買ってきて
染色マジックで絵を描いた。
何の絵だったかは忘れた。
前と後ろで
ふたコマ漫画になるような
絵柄だった気がする。
岩田少年は
軟式テニス部だったので
部活の練習に
そのTシャツを着ていった。
何それ?
みたいな感じで
盛り上がったのだろう。
気をよくした岩田少年は
またTシャツをつくる。
趣味で絵を描いても
発表する場はない。
描いた絵を
学校に持っていって
わざわざ見せるのは
ハードルが高い。
でもTシャツだったら
着れば見せられる。
高校に入ると
染色絵の具
を手に入れた。
マジックで線を引き
絵の具で塗りつぶす
技法を確立する。
つくったTシャツを
軟式テニス部の練習に着ていく。
それなりに話題になる。
それなりにいじってくれる。
大学に入ると
Tシャツくん
という
大判サイズの
プリントゴッコ
のようなものを
手に入れる。
要は簡易的な
シルクスクリーンだ。
Tシャツくんで
線を刷り
絵の具で彩色する。
気になっていた女子に
「Tシャツください」
と言われ
喜んでつくったりした。
赤唐辛子の柄だったと思う。
Tシャツは喜ばれたが
それ以上の進展はなかった。
働きはじめて
初めてのボーナスで
買ったのは
マックだった。
Power Macintosh 7600/200
にメモリをてんこ盛り載せたもの
ソニーのモニター
アルプス電気の昇華型プリンター
スキャナー
ハードディスクの
容量は2ギガ。
全部で46万くらい
だった気がする。
転写シートにプリントして
アイロンで転写。
いよいよ
量産化に成功する。
フリーマーケットで
売りはじめる。
横浜の日本丸公園に
よく出店していた。
下北沢の商店街が
閉店した後の路上で
売ったりもした。
PUFFYに
着てほしくて
送りつけたりもした。
着てくれた形跡はない。
椎名林檎には
合格りんごの要領で
「椎名」と
書いたりんごを
送りつけた。
届いたかどうかも
わからない。
2000年。
インターネットが
普及しはじめたので
ホームページで
Tシャツを売りはじめる。
本を見ながら
自力でホームページをつくる。
ソフトはGO LIVE 4.0。
ホームページを
つくるにあたって
屋号というか
ブランド名が必要だな
と気づく。
正直
ブランド名は
何でもいいと思っていた。
ロゴTを
つくるわけでもないし。
最初は
「きくらげ」
にしようと思っていた。
特に意味はない。
で
当時付き合っていた彼女に
「きくらげにしようと思うんだけど」
と告げたら
「きくらげはやめた方がいいんじゃない」
と却下された。
二人でトボトボと
三軒茶屋の商店街を
歩いていた。
豆腐屋の店先に
バケツいっぱいの
ちくわぶを見つけた。
「ちくわぶ だったらどうかな」
「ちくわぶならいいんじゃない」
そんな経緯で
店の屋号は
ちくわぶになった。
そのネーミングには
何の想いも
込められていないのだが
「なんでちくわぶなんですか?」
とお客さんに聞かれたら
「世の中の旨みを吸って
おいしくなっていきたいからです」
とそれっぽいことを
言っている。
ちくわぶ
は現在もなお
細々と続いている。
ちくわぶ Tシャツ |検索
いつの頃からか
印刷部分が
ちょっとふくらんでいる
Tシャツを
つくっている。
そんなTシャツを
着ていると
とても気さくな
女優のYさんは
CM撮影の時に
寄ってきて
「今日はメロンだねー」
とか言いながら
僕が着ている
Tシャツをさわってくれる。
なので
撮影時の
僕のいちばんの仕事は
なるべく
さわりたくなるような
Tシャツを着て
なるべく
最前列に立つ
ということである。
常連客の方からは
乃木坂の握手会に
着ていったら
Tシャツをいじられて
話がはずみました
との
報告もあった。
いくらか
世の中のお役に
立てているようだ。
ソーシャルグッド。
ただ
Tシャツは儲からない。
在庫を抱えるからだ。
売れない柄は
永遠に在庫になる。
我が家には
3000枚くらいの
在庫が眠っている。