リレーコラムについて

思ってたんと違う③

石山寛樹

営業ライフも2年が過ぎた頃、

元々志望していたクリエイティブへの異動を真剣に考えはじめた。

 

営業を丸3年やったら、

社内の転局試験を受けようと決めていた僕は、

宣伝会議のコピーライター養成講座に通い、

自分のモチベーションと、スキルを磨いた。

 

たまに休んでいたけど。

いや、正直に言うと、かなり休んでいたけど。

真面目に講座に通わなかった僕は、

講座の中でモチベーションの高い人たちで形成される輪には当然入れず、

入ろうともせず、飲み会もろくにいかず、悶々と過ごしていた。

 

その後、社内転局試験はパスして、

4年近くの営業ライフを終えて、

念願のクリエイティブへ異動となった。

 

今思うと、転局試験で提出した無茶苦茶な企画が

当時のクリエイティブの偉い人が面白がってくれて、

「こいつでいいんじゃないの?頭おかしいよ」って感じで、

ほぼ人柄採用だったように思う。

 

運が良かった。

 

名刺の肩書きも、憧れの「CMプランナー」となり、

おもしろCMを量産して、

すぐにスタークリエイティブになってやる!と

意気込んでいたのだ。

 

異動当初は、無邪気に企画をしていたので、

運良く企画も通り、CMデビューを飾ることに成功!

よーし、ここから一気に駆け上がるぞ!

 

・・・と、思っていたのだが・・・

 

その後、企画が全然、通らなくなる。

 

僕はチーム内でいつも最年少ということもあったが、

先輩たちの企画と比較して、自分の企画が拙いこと拙いこと。

 

ある先輩からは、

「企画も下手だけど、コンテのキャプション(※)も下手だな」と

言われるほどに。

※キャプションとは、コンテのコマの左横にあるト書きのことでシーンの説明をする文章のこと。

 

打合せでも僕の出す企画は大体スルーされ、

他の人の企画で話が盛り上がる。これは本当に精神的にくる。

プレゼンに出すとしてもA案。

たいして面白くもない、基本案なことが多かった。

 

また、若手だからか、やたらと仕事量だけが多く、

日々オーバーワーク気味で、寝れない日々が続いた。

 

毎日、退社後、深夜2時くらいから翌朝8時くらいまでファミレスにいては、

無駄に紙を広げて、ペンを片手にうんうん唸りながら企画をしていた。

 

ワープして一瞬で明後日にジャンプしてないかなーとか、

思ったりもしたこともある。何度も。

 

苦しかった。

 

あんなに憧れていたクリエイティブだったのに。

 

しかし、

 

あるCDは、そんな僕でも仕事に呼び続けてくれた。

 

出す企画がダメでも、ここはいいとか、ここだけは面白いとか、

これはカンヌで見たあれと根っこは同じだから発想はおもしろいとか、

良い部分を見つけては、諭してくれた。

 

嬉しかった。

 

数年後に、お互いに会社を離れた後にCDに聞いたことがある。

「当時、なんで僕を仕事に呼んでくれたんですか?」

 

CDはこう言った。

「だって、石ちゃんはいつも一生懸命だったから」

 

泣きそうになった。

 

一生懸命なんて、当たり前だ。好きな仕事なんだから。

そんな誰もがやってることを理由に呼び続けてくれたのかと思うと、

申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちが入り混じった複雑な感情が駆け巡った。

でも、感謝の気持ちが上回っていたと思う。

 

そのCDからは多くを教わったが、いちばん教わったのは、

「広告はおもしろくていいんだよ」ということ。

これがあるだけで、僕自身どれだけ救われただろうか。

 

そんな感じで、ダメながら、日々、企画や制作を続けていて、

いつか自分は花開くだろうと心待ちにしていたが、

どうもいっこうにその予兆を感知できない。

自分に可能性を感じないのだ。

 

軽く絶望した。

 

薄々感じてはいたけど、

 

自分は凡人かもしれない。

 

いや、どうやら凡人のようだ。

 

困った。

 

でも、この仕事が好きだから、諦めるわけにはいかない。

 

じゃあ、どうしよう。

 

ちょうど、僕を呼び続けてくれたCDが、

あるクリエイティブブティックに転籍することになり

会社を離れるタイミングだった。

 

これで、僕を使ってくれるCDはもはや誰もいないだろう。

 

もう自分でなんとかするしかない。

 

ちょうど30歳になる年で、

僕は結婚することも決まっていたので、

逃げ道はないなと思った。

 

そこからは、必死になった。

 

これまでなんとなく見ていた海外賞リールを見返して、

分析して、企画の種類やクラフトの傾向を整理して棲み分けながら、

頭に叩き込んでいった。自分の中に、

企画の棚をちゃんと増やそうと思ったからだ。

 

どんな小さな仕事でも営業さんからもらおうと思い、

営業フロアに行って、営業した。

 

結婚したので、深夜まで働くのはできるだけやめて、

朝5時に起きて、朝方に集中的に仕事をするようになり、

土日も、できる日は、ほぼ仕事に費やした。

 

35歳までに何か結果を出せないなら、

この仕事を離れる覚悟を決めて、

目の前の仕事に傾倒していった。

 

思えば、20代は忙しかったけど、

クリエイティブごっこをしていたように思う。

 

30歳にしてはじめて、

仕事に向き合ったと言える。

 

クリエイティブは、

 

思ってたんと違う。

 

苦しみと悩みにずっと支配されている。

 

そして、

 

33歳の時に、

僕の転機となる仕事に巡り会う。

 

つづく。
—-


3日目は以上です。

少し長くなってしまいました。

ずっと悩みながら仕事をするのが

僕の特徴なのかもしれません。

 

残り2日です。

よろしくお願いします。

 

NO
年月日
名前
5692 2024.04.21 長谷川輝波 言葉オブザイヤー@ヘラルボニー
5691 2024.04.20 長谷川輝波 言葉オブザイヤー@韓国の街中
5690 2024.04.17 長谷川輝波 言葉オブザイヤー@新宿ゴールデン街
5689 2024.04.12 三島邦彦
5688 2024.04.11 三島邦彦 最近買った古い本
  • 年  月から   年  月まで