広告民藝運動
街を歩いていて、AIによって生成されたビジュアルが増えた気がします。 手描きであったりパワポで作られていたような作り手の迷いや癖が見えたものから、よく出来ているのだけど見たことある表情をしたAIっぽいものに。 これがどうも寂しい。作った人の手を感じられなくなって。 これまで自分がやってきた仕事でも、広告のそれっぽさから抜け出すために そのテーマにおける癖や作り手を感じるものを入れ込むことで目立たせようとしてきました。街場の表現物は、そんなときの教師でもありました。閉店広告のシズルを学んだ「どん兵衛の閉店告知」だったり、運動会の雰囲気を学んだ世界陸上の広告だったり。過去の事例でも、ある書店の手描きPOPが全国の当たり前になったように、強い手仕事は普遍になっていきます。この豊かさは、失われていってしまうのでしょうか。均一化していく表現と照らし合わせたときに、街場の広告はすごいんだぞと思わせてくれるヒントは無いものか。
ところで私は民藝品が好きで、旅先などでゆかりの地に足を運んだりしています。 鳥取民藝美術館、盛岡光原社、芹沢銈介美術館など。数年前に同期の大津に勧められて河井寛次郎記念館に行って衝撃を受けて以来になります。河井寛次郎記念館は建物そのものに手で作られた感覚が宿っていて民藝品の中にいるかのような錯覚を得ます。直線がないんじゃないかしら。オーストリアの建築家フンデルトヴァッサーも直線のない建築を提唱しており、何箇所か空間を体験しましたが、あっちの曲線が少々作為的ものを感じるのに対して、こちらの曲線は偶発的で自然な歪みを感じます。結果、記念館には手触りな心地よさがあります。住みたい。さておき、民藝とは何なのか。柳宗悦らが提唱した「生活の中に根ざした実用の中にある美を見出して肯定する運動」と言われております。
駅員さんが作ったであろうカニの広告、近所の八百屋の強烈な筆文字の広告、20年以上前にみた御徒町店頭の女優を水着姿にした水彩画ポスター広告(あれはなんだったんだ)。いわゆる、私たちが「広告」とするそれではなく、作り手の顔が見えて魅力的な「広告」はたくさんあります。いわゆる「広告」が、大量生産されて各所に流布することを前提として作られているのに対して、そういった街場の「広告」は「広告の民藝」と言えるのではないかと思いました。
民藝運動は、
「美術品に比べて工芸品の価値が低くみられていたこと」
「大量生産の工業製品が出回ることで手仕事が失われること」
「アーツアンドクラフトの影響」
といったあたりが勃興の要因とされてますが、広告に置き換えると
「いわゆる広告に比べて街場の広告は評価がされづらい」
「AIによって手仕事の広告が失われる」
「(強いて言えば)コカコーラのCoke-Creating的な、ブランド管理主義からの解放の影響」
https://www.vml.com/work/every-coca-cola-is-welcome
といった相似が見出されないでしょうか。
手仕事の美を見出した民藝運動のように、広告にも”民藝的な在り方”があるとしたら。
それを「広告民藝」と呼ぶのなら、こんな要素があるのではないでしょうか。
【広告民藝のほにゃらら箇条】
用の美: 個人で出来る範囲で届けようとする姿勢に美が宿る
→SNS以降、「誰が」の文脈が強くなった。よりリアリティのある「誰が」を考えることが出来るのではないか。
無名性: 有名な人の顔に依存するのでなく、作り手の手仕事が魅力となる
→コンビニの迫力ある陳列などは、作り手の手仕事だけを浮かび上がらせている。
健康性: いきすぎた自分褒めような嘘や虚飾がなく、正直で健やかである
→No.1表記が問題化する広告の一方で、作り手のリアリティある声が表現されるため正直で健やかである。コピーライターの祖と言われるジョン・E・パワーズによるデパートの広告も正直だ。「腐ったカーテンがあります」とか「明日破産します。あなたが来なければ。」など。
経済性: やろうと思えば今日からでも出来る
→これは前述と相反するが、AIを活用することで廉価にオリジナリティを獲得する街場の広告は多くあらわれるはず。
地方性: 遠くの人ではなく、目の前の人に見てもらうための創意工夫がなされている
→その場にのみ協力な意味を発する文脈は、熱となって伝播していく。
伝統性: 特殊な技法が生み出されて継承され続けている
→とある鉄道会社ではオリジナルの広告制作ツールがあると聞いた。私たちの技法とは何か?
と、拙い変換ですが、「なぜウチより、あの店が知られているのか」(嶋野さんとの共著)でも感じていたような個人の発信する広告のあり方も鑑みてまとめてみました。民藝運動って少し上から目線だという指摘もあるんですが、こちらは横から目線だと思ってもらえますと幸いです。
なんでこんなまとめなんかしてるのか。それは、純粋に街場の表現物を散歩しながら見るのが好きで面白いのを見ると興奮するからです。そういったものが残ってほしいし、楽しんで作られたものが世に溢れてほしい(忙しい中で無理して、ではなく)。そして、自分としてはいわゆる広告を作る際も、大量生産の効果に甘んじていないか?手仕事を感じられるものになっているか?を肝に銘じたいという気持ちがあるためです。「美は暮らしの中にある。」という言葉がありますが、こっちの言いたいことばっかで暮らしから離れていってないか?など。正直なところ、VOWが好きだったというもの大きいかもしれません。思い返せば、高校の学園祭でも出し物の告知を作るときにいわゆる広告っぽくなるのがイヤで、名古屋でみかけた自虐的だったりひっくり返ったりしている広告のようなものをやろうと、一旦許可された場所に自ら作ったポスターを掲出したあとに上から「騙された!」みたいなことを手描きで書いてまわったことを思い出しました。あの時間は最高に楽しかった。翌朝話題になってるぞ、と学校に来たら普通に悪戯だと思われて撤去されていました。
というわけで、これからも広告の民藝を蒐集していきたいので、これなんかどう?という事例がありましたら教えてください!
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