2001年
一倉さんは僕の師匠だ。
と言っても
一倉広告制作所に
勤めたことがあるわけではない。
一緒に仕事をしたこともない。
一倉さんが8回講義をする
宣伝会議の講座に
通っただけだ。
2001年。
養命酒のコピーライターとして
働いて4年目の頃だった。
一倉教室
一期生である。
AKBでも何でもそうだと思うが
やっぱり一期生というのは偉いので
門下生でたまに
句会をやったりする時も
意味もなく
堂々としていられる。
一期生で新人賞を獲った人が
僕を含めて5人いる(多分)。
生徒は30人くらいなので
なかなか優秀だと思う。
僕はクラスの中で
飛び抜けて優秀だった
ということは
まったくなく
地味な生徒だった。
講座帰りの電車で一緒になった
これまた地味めの女生徒が
「Hくんって
すごいわよねー。
なんであんなコピーを思いつくのかしら」
と言っていたのを
覚えている。
Hくんは
たしかに
キレのいい尖ったプレゼンを
していたように思うが
それ以上に
人としてなんかカリスマ的で
華があったので
「雰囲気に引っ張られとるがな」
と僕は思った(ような気がする)。
記憶を捏造している
だけかもしれない。
僕の一倉さんとの出会い
というか
一倉さんのコピーとの出会いは
その3年くらい前にさかのぼる。
養命酒に入社して
養命酒の新聞広告を考える
仕事に携わって数ヶ月。
広告は
「ものを売るための仕組み」
と叩き込まれ
どういうことを書けば
上司や世の中に
いい反応をもらえるのか
なんとなくわかってきた頃だった。
それは同時に
広告に対する
夢や幻想を失いつつある
時期でもあった。
正直
表現でギャンブルするよりも
直接的な広告の方が
効率はいい。
ハズレが少ないから
投資に対するリスクが減る。
「おいしい」以上に
「おいしい」を
伝えられる言葉はない
みたいなことだ。
(「おいしさ」を伝えられる言葉はたくさんあると思う)
そんなことを
あきらめのように
受け入れはじめていた。
広告代理店がつくる
話題の広告や
広告雑誌がもてはやす
クリエイティブな広告を見て
「そんなんでモノが売れるんですかね?」
と毒づいているような
タイミングだった。
僕はその日も
17時過ぎに定時で退社して
トボトボと渋谷を歩いていた。
※注
養命酒はその商品特性とは真逆の
渋谷に会社があるのです。
で
そんな時に
駅でふと見たのが
「けれども、君は永遠じゃない」
というパルコのポスターだった。
意味はよくわからないけど
なんかいいなあ。
なんでかわからないけど
なんかいいなあ。
しばし立ち止まって
ポスターを眺めた。
電車を何本か見送った。
(記憶の捏造かもしれない)
ああ
そういえば僕も
こういう
人の想像力を
くすぐるような
コピーが書きたかったんだよなあ
と思った。
というか
思い出した。
その後
ブレーンか広告批評で
このコピーを書いたのが
一倉宏という人であることを知った時は
一倉くんという
きっと同世代のコピーライターが
書いたのだな。
僕もがんばろう。
ありがとう一倉くん。
などと思ったものだ。
その後
そう遠くないうちに
一倉宏氏は
全然若くない
超有名コピーライターだと知るのだが
当時は新進気鋭の若者が
書いたものだと
疑わなかった。
それくらい
23歳の岩田青年は
そのコピーに
感銘を受けていた。
一倉さんも昔
「服を脱がせると、死んでしまいました」
というコピーを見て
むむむ
これは才能のある
若いコピーライターが
現れたぞ・・
と思っていたら
仲畑さんが書いたものだったと後に知って
なんだかホッとした
という話をしてくれた。
そんな
広告のダークサイドに
堕ちそうになっていた
若かりし日の岩田を救ってくれた
そのコピーから
3年後。
一倉宏が
コピーライター養成講座で
8回の授業をするという告知を見て
岩田は講座に通いはじめた。
その講座は
実際にコピーライター
あるいはそれに準ずる仕事を
している人を対象にしたもので
当初は
そんな生徒が
いま抱えている悩みに
一倉さんが答えていくという
クリニック形式の授業だった。
そんな講義が3回くらい続いた頃
「こんな講義のために
自分はお金を払ったのではない。
コピーの書き方を教えてくれ」
というようなことを
言いだす生徒が現れた。
この手のコピーライター養成講座は
基礎コース
上級コース
専門コース
有名コピーライターが
数回受け持つ特別コース
など
多種多様なコースがあり
ありとあらゆる講座を卒業してきた
受講生界のプロ
あるいは
コピーライター養成講座ソムリエ
のような人が存在する。
そんな養成所ソムリエの方が
遠回しというほど
遠回しでもない
まあまあ直接的な言い方で
「思っていたのとちがう」
「この授業おもしろくない」
「コピー書かせろ」
的なことを言った。
失礼なことを言うなあ
と思ったけど
それは生徒がみんな
薄々感じていたことでもあった。
一倉先生は
そこまで言うなら
課題を出すから
コピーを書いて
一人一案プレゼンしよう
と
大人の対応で
2週間後の授業は
コピーのプレゼン大会になった。
課題は丸井のクリスマス。
「ここでいいコピーを書いたら
一倉さんの事務所に入れるのでは!?」
おそらくみんな
(少なくとも僕は)
ずうずうしい下心丸出しで
コピーを書いた。
で、2週間後。
それぞれコピーを発表する。
それなりに考えた筋道を説明する。
僕もコピーを発表した。
が
残念ながら
誰のコピーも覚えていない。
自分が書いたコピーすらも
覚えていない。
というのも
ひと通りみんながプレゼンした後に
「僕も一つ考えてきたんだけど」
と一倉さんも
考えてきたコピーを
プレゼンしはじめたのだ。
そのコピーがもう
生徒とはレベルの違う
レベルというか
もはや競技が違うくらい
すごいものだった。
言葉に込められた
思いというか
願いというか
なぜ
そのコピーでなければならないのか
ということが
コピーを見るだけで伝わってきた。
言葉としてすごく
切実で誠実だった。
コピーの山を登り続けた人は
こんな高みに行けるのか・・・
同じ課題をやった身であるから
その違いを実感した。
考えてたどり着いた先の
景色の違い。
呆然とする生徒。
少し照れくさそうな先生。
(記憶の捏造かもしれない)
その時のコピーは
覚えているが
ここでは書かない。
ヒントとして
2001年は
同時多発テロがあった年
ということだけ記しておきます。
それ以降
生意気なことを
言い出す生徒は
いなくなった。
コピーでねじ伏せる。
学ばせる。
こんな
コピーライターになりたい
と思った。
その時の感情は
いまでもおぼろげに
覚えている。
記憶の捏造の可能性はある。
でも
記憶の改ざんがあっても
いいと思っている。
大切な思い出は
成長する
ということかもしれない。
いまよりも
ちょっと寒い12月のことだった。
僕は
いつの間にか
その頃の一倉さんの年齢を
超えてしまっている。