リレーコラムについて

1996年

岩田純平

就職活動が下手だった。

 

正確にいうと

面接が下手だった。

 

さらに正確にいうと

プレゼンが下手だった。

 

プレゼンはいまでも

上手くない。

 

1996年。

 

就職氷河期で

インターネットの黎明期。

 

若者の連絡手段は

主にポケベル。

 

筆記試験で

「www」

とは何の略か

答えなさい

という問題が出る。

 

そんな時代だ。

 

もちろん僕は

答えられなかった。

 

あと

その年に

イスラエルの首相に

なった人物は誰か

みたいな問題もあった。

 

答えは

ネタニヤフだったが

これももちろん

書けなかった。

 

書けなかった問題は覚えている。

 

30年後

ネタニヤフが

まだ首相をしているとは

誰が予想しただろう。

 

マスコミを中心に

たくさんの会社を受けた。

 

書類と筆記は

まあまあ通った気がする。

 

面接に進むと

一次面接すら

通らないのだから驚く。

 

ベネッセの筆記が

異常に難しかったことを

覚えている。

 

進研ゼミって

そんなに難しかったっけ・・?

と思いながら

絶望した。

 

ベネッセは筆記で落ちた。

 

そもそも

自己紹介の内容が

ひどかった。

 

覚えている範囲で書いてみる。

 

・・・・・・・・

 

自分は殺し屋のような男です。

殺し屋には自分は失敗しないという

絶大なる自信があると思います。

自分も自信のかたまりです。

やると決めたことは確実に結果を出し・・・

 

・・・・・・・・・

 

覚えていたのは

3行目までだった。

 

4行目も

多分あっている気がする。

 

5行目は

いまの自分の

ディレクションが

入っちゃってると思われる。

 

当時の自分の力量で

この先

どうつないで

どんな結論に導いたのか・・。

 

興味深い。

 

いずれにしても

「自信のかたまりです」

という自己PRを

緊張して

こんな自己PRにしたことを

半ば後悔しながら

自信なさそうに

ボソボソ話しているのだから

通るわけがない。

 

この自己PRは

さすがに無理がある

 

と察した

岩田青年は

自己PRを変える。

 

頭が悪いわけでは

ないのだろう。

 

その結果

考えたのが

 

・・・・・・・・

 

自分は

耳かきのふわふわ

鉛筆の後ろの消しゴム

新潮文庫のひも

千堂あきほのえくぼ

みたいな人間です

なくてもいいけど

あったらうれしい。

そのうちに

なくてはならない

と思える人間だからです・・・

 

・・・・・・・・・・

 

えくぼの部分は

千堂あきほ

じゃなかったかもしれない。

 

例えパートは

もうちょっと多かった気がするし

もうちょっとおもしろいのも

あったかもしれない。

 

おそらく

この芸風は

ふかわりょう

の影響だと思う。

 

いずれにしても

こんな自己PRでは

どこの会社にも

入れないことだけは

証明した。

 

そもそも

文学部という

働く気がない人間の

溜まり場のような

学部だったこともあり

 

※注

昭和の空気の名残がある

平成8年の話です

 

どうすれば

一番楽に生きていけるかを

考えた末に

導き出した答えが

 

その日起きたことを書いて

お金に変える仕事

 

だった。

 

当時だと

椎名誠とか

原田宗典

 

銀色夏生の

つれづれノートとか

 

ちょっと先だと

リリーフランキーとか

 

いまだと

燃え殻とか

小原晩とか

 

そんな人。

 

この前

本屋に行ったら

つれづれノートの

最新刊(48巻)が

出ていて

 

「まだ続いてたの・・?」

 

まあまあ大きい

声が出た。

 

僕が高校の頃

読んでいたのだから

35年以上

続いているのか・・・

 

それだけ書いていたら

AIがその続きを

永遠に書き続けて

くれるのでは・・

 

銀色夏生さん

すごいなという話は

誰かに任せるとして

 

なぜ

そんな答えに

至ったかというと

 

当時の僕は

マクドナルドで

バイトをしていて

 

控え室にあった

クルーノートと呼ばれる

バイトの人が

誰でも書き込める

ノートに

その日あったこととか

週末の競馬の予想なんかを

書いていたのを

仲間にちょっと

ほめられたりしたから

だと思われる。

 

浅はかすぎて泣ける。

 

一般人が

どうやったら

そんな仕事に

就けるのかを

考えて

 

雑誌の編集者と

仲良くなればいいのかな?

じゃあ

出版社に入ろう

 

という

短絡的な結論に至った。

 

そんな理由で

入ろうとする

大して苦労もしてない

大学生を

出版社が採用する

わけもなく

 

その周辺という感じで

受けていた

テレビや新聞や

電通なんかも

当然入れるわけもなく

 

100社以上受けて

1社も受からぬまま

8月を迎え

 

たまたま

大学のマスコミ掲示板に

貼ってあった

 

「養命酒コピーライター募集」

 

に応募したところ

養命酒が

本当に

神さまのように

やさしい会社で

 

採用していただき

就職活動は

急に終わった。

 

養命酒も

コピーライターも

その時は

ぼんやりとしか

わかっていなかった。

 

いま思うと

物書きになりたかった

というよりも

 

カルチャーの

中心にいて

ちやほやされる人

になりたかったのでは

ないかと思う。

 

と言語化してしまうと

とんでもなく

恥ずかしいが

 

30年前の自分は

ほぼ他人なので

どうでもいい。

 

 

子どもの頃は

漫画家になりたかった。

 

ドラえもんを

初めて読んだ

幼稚園の頃から。

 

紙をホッチキスで留めて

8ページくらいの

小冊子をつくって

漫画を描いたりしていた。

 

「ゴロニャンタ」

というタイトルだった

ことだけ覚えている。

 

内容は覚えていない。

 

2本足歩行ではなく

4本足歩行のネコが

主人公だった気がする

 

10冊くらいつくって

2巻以降は

表紙しか描いていない

記憶がある。

 

大学生くらいまでは

うっすらと

漫画家になるつもりでいた。

 

けど

特に努力も

しなかった。

 

高校の時に

一度

週刊少年ジャンプに

持ち込みに

行ったことがある。

 

蚊を主人公にした

漫画だった。

 

担当の編集者は

 

「もうちょっと

読む人のことを

考えなさい」

 

というようなことを

言っていたように思う。

 

新人コピーライターが

先輩に言われるのと同じだ。

 

生意気な岩田少年は

絶望することもなく

「もうちょっと一生懸命読めよ」

と編集者に怒りながら

帰ったような気がする。

 

その後

何度か

吉田戦車の影響で

描きはじめた

不条理4コマを

アフタヌーンあたりの賞に

送ったりしたが

一次審査を通ることもなかった。

 

 

一人で完結できる仕事が

好きなのだろう。

 

なので

一人でコピーやら

イラストやら

全部書いていた

養命酒の仕事は

天職だったのかもしれない。

 

最初から

電通に入っていたら

いまこうやって

リレーコラムを

書いているような

コピーライターには

なっていなかったと思う。

 

きっと

いろんな人に

あーだこーだ

言われたり

他の人と自分を比べたりして

勝手につぶれていた

気がする。

 

一次面接も

通ってない奴に

そんなこと言われたくないなあ

 

電通は思うだろうけれども。

 

 

いまでは

プレゼンもいくらか

マシにはなった。

 

とりあえず

Vコンをつくっておけば

何とかなる

と思っている節はある。

岩田純平の過去のコラム一覧

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