コピーライターになれない人生 〜汐留編〜
ラジオからは、
Ne-Yoの『Because of You』が流れている。
2008年3月、ぼくはある会社の内定を握りしめていた。
それはクリエイティブではなく、
媒体的ポジションのもの。
ただ、汐留にある、
日本一大きい広告代理店行きの切符だった。
この内定を武器に、ぼくは最後の作戦に出る。
クリエイティブの局長をカフェに呼び出し、
交渉をしたのだ。
ぼくは切り出した。
「すぐにでもクリエイティブ局に行かせてもらえるなら、この内定は断ります!」
いまなら分かる。
まず訴えるべき相手をまちがえている。
そして、そんなやり方で会社は動かない。
局長は、ぼくをやさしく諭した。
「時間をかけたぶんだけ、勢いよくマグマは噴出する。
だからその時まで待ちなさい。」
これだけ訴えてもダメなのか。
25歳のぼくは、落胆した。
瞬間、会社を去ることを決意する。
コピーライターにはなれないが、
日本一の広告代理店で働いてみることに、
少しだけ興味もあった。
しかし、それは甘かった。
あまりにも甘すぎた。
そこから、長い暗黒期に入ることになる。
…
…
コピーライターになれる会社に行こうと思った。
コピーライターになれるならどこでもいいと思った。
いますぐならないと手遅れになる。
だが、世界はそれを許さない。
リーマン・ショックが起こり、
それどころではなくなった。
どこの会社も一斉に採用を閉じた。
100社以上、無作為にメールを送ったが、
どこからも返事はなかった。
名古屋時代に作り上げた借金も尾を引いていた。
その頃、お金がなさすぎて、
日雇いのバイトもした。
(赤羽で雑誌をピッキングする肉体労働だった)
まちがいなく、人生のどん底にいた。
コピーライターどころではなく、
人生すら成り立つのかと思った。
当時の会社の人たちには、
コピーライターへの想いを打ち明けていたが、
誰もぼくが本気でなれると信じていなかった。
それどころか、
「お前がなれるわけないだろ」
と何度も鼻で笑われた。
(殺す)
いつか、かならずコピーライターになり、
いいコピーを書くことで
復讐してやると心に誓った。
彼ら彼女らがたどり着けない境地に
かならず行ってやると、
自分と約束した。
いまの原動力は、
この頃に抱いていた怒りにほかならない。
その後、東日本大震災が発生し、
自粛ムードとあわせて広告業界も低迷する。
失われた世代。
この世代は、やりたいことを「やりたい」と言ったらダメなのだろうか。
希望を持つことは許されないのだろうか。
のちに登場するZ世代には、激しく嫉妬した。
そんな失われた人生が好転しはじめるのが、
いまの妻と出会ってからだ。
彼女と出会ってから、
ひたすら下降線をたどっていた人生が、
少しずつ上向きはじめる。
そして、コピーライターになれない人生が、
ついに終わりを迎える。
2013年冬。
渋谷の居酒屋「やまがた」で、
川見さんと飲んでいた。
当時、川見さんはCCレマンという
渋谷にある広告制作プロダクションに所属し、
いまコピーライターを募集しているとのことだった。
頼み込んでつないでもらい、
面接を受けた。
これで受からなかったら、さすがにもうムリかもな。
そう思っていた。
「内定」
え?
あんなに遠かったコピーライター。
あんなに拒絶され続けたコピーライターの肩書きが、
あっさり舞い込んだ。
社会人になって8年目。
30歳になっていた。
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