コピーライターになれない人生 〜名古屋編②〜
ラジオからは、
チャットモンチーの『シャングリラ』が流れている。
2007年冬、ぼくは媒体局ラジオテレビ部に異動となった。
コピーライターへの想いを捨てたわけではない。
むしろ、それは日に日に増幅していた。
しかし、前年に逃亡事件などいろいろやらかしていたぼくは、
この人事におとなしく従い、新たな地でがんばることを決意した。
当時はまだパワハラ上等時代。
2年目の若造など、格好の餌食。
社内の営業とテレビ局との板挟みの中で、
理不尽な調整に奔走する日々がはじまった。
某テレビ局には、見積もり依頼の電話をするだけでなぜか怒られた。
ただ、少しずつ社会への耐性ができはじめていたぼくは、
圧の強い相手に対し、ハムラビ法典よろしく、
言われたら全力で応戦するようになっていた。
すると、不思議なことに、
若造だからとナメかかってきた相手も、
次第に認めてくれるようになったのだった。
その頃は、コピーのスキルとかじゃなく、
社会で生き抜くためのスキルを学んでいたように思う。
一方で、コピーライターへの足がかりをなんとかつかみたくて、
宣伝会議賞に死ぬ気で取り組んだ。
応募期間中の2ヶ月間はいっさい予定を入れず、
休日もすべてコピーを書くことに費やした。
いや、それどころか、
会社のホワイトボードに
「行き先:◯◯◯(テレビ局の名前)」と書き残し、
カフェにこもって1日中コピーを書いた。
(もう時効ですよね)
だが、まったく結果は出なかった。
やはり本業でコピーを書かない限りは、
コピーのスキルなど上達しない。
それを痛感していた。
三晃社では、たくさんの先輩たちに可愛がってもらった。
特に、1つ上の先輩でクリエイティブ局の鈴木さんにはお世話になり、
ラジオCMの案出し会議に、ぼくをこっそり入れてくれたりもした。
そして、もうひとり。
ドン・コルレオーネのような先輩がいたのだが、
その人と出会ったことで、ぼくの社会人生活はドラマチックに変わることになる。
ドン先輩と、
こちらも1つ上の先輩で現TCC会員でもある川見さんとは、
連日、名古屋の繁華街で飲んだ。
毎日飲んだ。
朝まで飲んだ。
お金がなくても飲んだ。
ドン先輩には、
社会人としての嗜みもたくさん教えてもらった。
そのひとつが、パチンコ。
「パチンコもできないようでは、広告マンとして失格」
会社の中では、そんな不文律が存在していた。
(あと「広告マンたるもの人殺し以外はなんでもする」というのもあった)
ある日、ドン先輩から電話があった。
「いますぐ栄の◯◯(パチンコ屋の名前)に来て!」
急いで行くと、
「これを持ってるだけでいいから!」
そう言い残し、客先に出かけて行った。
(もう時効ですよね)
確変中だったらしく、
ハンドルを持っているだけで
玉がジャラジャラ出てくる。
結局、10万円近くの大当たりで、
「よくやった」
と、報酬として3万円もらえた。
これがよくなかった。
その日から、
ドン先輩といっしょにパチンコ屋に入り浸るようになり、
そのほとんどが負けた。
当時、たいして実入りもなかったぼくは、
クレジットカードのキャッシングを使ってまで
パチンコに行くようになっていた。
サラ金には手を出さない。
あくまでキャッシングにとどめた。
(えらいぞ24歳の自分)
だが、少しずつ借金はふくらみ、
少しずつ首が回らなくなっていった。
(このあと全額返済するのに5年かかることになる)
お金はない。
コピーライターにもなれない。
それでも、楽しかった。
希望しかなかった。
いつか報われる日がかならず来る。
そう信じて、
毎日飲んでパチンコをした。
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