コピーライターになれた人生 〜渋谷編〜
ラジオからは、
ダフト・パンクの『Get Lucky』が流れている。
2013年5月、ぼくはコピーライターになった。
はじめは、その肩書きを手に入れた喜びしかなく、
チラシのコピーだろうが校正だろうが、
どんな仕事でもうれしくて仕方なかった。
ぼくを採用してくれたのは、
佐藤さん(元TCC会員)という巨匠クリエイティブディレクターで、
コピーライターとしてのモノの見方とか、発想の仕方とか、
そのすべてを佐藤さんから学んだ。
ひよこがはじめて見る親。
それが、佐藤さんだった。
そして、川見さんとは
三晃社以来、2度目の同僚となり(もはや追っかけ)、
佐藤チームでともに働いた。
まわりのコピーライターとぼくとの実力の差は歴然で、
アイデア出しの場で、
自分のコピーが採用されることはほとんどなかった。
コピーライターとして認めてもらうには
どうすればいいのか。
ぼくはもう一度、
宣伝会議賞に全力で取り組むことにした。
この賞は、数を出さなければ受賞することはできない。
(たまに数本で受賞する天才もいるが)
1200本。
それが自分に課したノルマ。
2ヶ月間、1日20本書けば達成できる計算。
ただ闇雲に20本書いても意味がない。
1次通過できるレベルの20本を、
2ヶ月毎日書き続けた。
その頃、仕事はカタログやDMといった
ボリュームのあるライティング業務が多く、
多忙のため、日中は宣伝会議賞に時間を割けなかった。
(あたりまえだ)
だから、
仕事が始まる前の朝、
昼休み、
電車の中、
休日、
捻出できる時間のすべてを使って書いた。
結果的に出した本数は、1500本。
そして、努力は報われる。
「住まいのプロはたくさんいますが、小田急沿線のプロは私たちだけです。」
小田急不動産の課題で書いたコピーで、
協賛企業賞を受賞した。
コピーで賞をもらうのはもちろんはじめて。
自信になった。
その表彰式で、中島さん(現TCC会員)と出会う。
彼女はもうひとつの「レマン」に所属し、
コピーライターになったばかりで受賞していた。
会社がすぐ近くということもあり、
よくいっしょにランチを食べに行っては、
コピーライターとしての苦悩を吐き出しあった。
彼女だけでなく、CCレマンでは、
たくさんのコピーライター、デザイナー仲間と
出会うことができた。
佐々木くん、悠くん、宮原、コウセイ、カマーチョ、
藤倉さん、栗波くん、カオ様、浪岡、梅ちゃん。
数え上げればきりがないが、
同時代に渋谷の小さな会社で苦楽をともにした
大切な仲間たちだ。
いまでは、ぼくの数少ない飲み友達でもある。
この会社で出会った仲間たちの中でも、
いちばん濃い時間を過ごしたのが、
鳥居さんだ。
2つ年上で、
新卒からCCレマンのコピーライター。
ぼくとは対極的なコピーライター人生を歩んできた人である。
鳥居さんとは、
CCレマンで2年目から同じ部署になり、
ぼくはこの人からコピーのいろはを学んだ。
ボディコピーの書き方も、鳥居さんから教わった。
そしてよく飲んだ。
毎日飲んだ。
終電まで飲んだ。
ぼくは、30代のほとんどをCCレマンで過ごし、
コピーライターとして必要なことのほぼすべてを、
この会社で学んだ。
在籍8年の間には、多くの仲間たちを見送った。
ぼくを採用してくれた佐藤さんも、
川見さんも、
佐々木くんも宮原も悠くんも、
気づけばみな会社からいなくなっていた。
いつしか自分も、この環境では飽き足らなくなっていた。
TCC新人賞。
コピーライターになることが目標だったぼくにとって、
この賞ははるか彼方にあるものだったが、
次なる目標として、
どうしても目指さなくてはならない賞になっていた。
しかし、それは、
この場所では到底不可能なことのように思えた。
TCC新人賞がとれる場所へ。
渋谷で過ごした青春は、
終わりを告げようとしていた。
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