リレーコラムについて

話、つくってませんから。(なでしこジャパンの巻)

関一行

2011年3月11日午前、僕はミラノでの撮影を終えロンドン経由で成田に到着した。

ヒースロー空港から同じ飛行機には、遠征帰りの『なでしこジャパン』の面々が乗り合わせていた。
当時の女子サッカーは日本代表といえど知名度は低く、
乗客たちも『なでしこジャパン』一行だと気づいている人は、あまりいなかったのではないだろうか。
なので、搭乗前に僕が「澤さん、ガンバッテ!」と声をかけると、ちょっとだけ驚いたご様子。
でも、すかさず「はい!ありがとうございます!」と元気に応えてくれた。
訊くと『アルガルベカップ』という毎年ポルトガルで開催される大会に参加して来たとのこと。
はじめて3位に入ったということだったが、よろこびよりも悔しさのほうが強いようだった。

フォワードの大野選手、僕、澤キャプテンの順でタラップを登り機内へ。
(いま思うと動画に残しておきたかった絵柄だ。)
そして『なでしこ』の面々は、なんとエコノミー席へ。
数ヶ月後にワールドカップ・チャンピオンとなる彼女たちだが、まだそんな待遇だった。

 

家に着いたのは、昼ごろだったか。
荷物を整頓したり洗濯したり、会社に連絡したり。
で、機内であまり眠れなかったので風呂に入ってから、ひと眠りしようかと。。。
その時だ。
揺れた。経験したことのないほど、大きく。
そう、2011年3月11日午後2時46分。
日本は、かつてない災害に見舞われた。

あの日、成田に到着した『なでしこ』の面々は、その後どこで地震に遭遇したのか。
解散して自宅に帰っていたのか。それぞれのチームに戻ったのか。
それとも代表の拠点となっていた福島のJビレッジに向かっていたのか。
もしそうだとしたら。。。
気になった。震災の日のことを思い出すと必ず『なでしこ』がセットで思いだされるようになった。

それから4ヶ月後の成田。
『なでしこ』を載せた便は、空港で最高の祝福とされる放水アーチの歓迎を受ける。
入国ゲート付近には、驚くほど多くのメディアとファンが。
そう、ワールドカップ・チャンピオン『なでしこジャパン』の凱旋帰国だ。
ゲートが開いた。
澤、大野、川澄、鮫島、あの時の面々だ。
あの日、地味に空港でスーツケースが出てくるのを待っていたあの面々だ。
ストロボと歓声の中、トロフィーを掲げ、メダルを胸に、
声援に応える『なでしこ』の様子がテレビ画面に映し出された。
震災で落ち込むこの国の、一躍、英雄となった。

実は彼女たち、決勝の前夜に東日本大震災の被災地の映像を選手全員で観たという。
そして、被災地に少しでも勇気が届けられるようにと、チーム一丸、奮起したという。

それからさらに1年後。
僕は再び『なでしこ』たちと遭遇する。
それもロンドン。サッカーの聖地ウェンブリーで。
そう、オリンピックの決勝の舞台。
ま、正しくは遭遇じゃなくて、現地で観戦、応援。
もう、彼女たちを知らない人などいなかった。
日本中の声援を味方につけて『なでしこ』たちは躍動していた。

たった2年で、栄光をつかみ取る者もいれば、
片や一向に復興の進まない被災地、止まったままの時間。
同じ2年という歳月。
時間は平等に過ぎていくとはいえ、惨いほど平等には染まっていかないものだ、とも感じた。

結果は銀メダルだった。
しかし、表彰台の『なでしこ』たちの表情は晴れやかだった。
その活躍と笑顔に、心を動かされた人は多かったのではないだろうか。
きっと被災地でも。
もちろん僕もそのひとり。

 

ほんとうの話です。つくってませんから。

 

ということで、このリレーコラム、だいぶオジチャンたちのバトンがつづいたので、
ここいらへんで味変しようかと。
ぐっと若返って、僕のガッコとカイシャの後輩でもある片岡良子ちゃんに繋ぎます。
どうぞ、よろしく。

 

 

NO
年月日
名前
5304 2022.05.20 上島史朗 夏休みの自由研究と哲学対話
5303 2022.05.19 上島史朗 アイデアのパッキング術
5302 2022.05.18 上島史朗 おにごやろう
5301 2022.05.17 上島史朗 ビッカースタッフ脳幹脳炎②
5300 2022.05.16 上島史朗 ビッカースタッフ脳幹脳炎①
  • 年  月から   年  月まで