リレーコラムについて

ありがとう、少年野球。①

鈴木良平

息子が小6の時、少年野球の監督をやりました。
と言っても、僕は、中学で卓球部、高校は帰宅部。
野球は、小中の休み時間と放課後の公園野球くらいしか
やったことがない。

そんな僕がなぜ監督か、というと
他にやる人がいなかったから。

6年生の親が監督をやるのがこのチームの決まりだったけど
息子の代は、練習を手伝っている親が僕しかいなかった
ただそれだけの理由で
背番号30のユニフォームを着ることになりました。

そんなわけなので監督をしていた一年は
たいへんなこともたくさんあったけど
おもしろいこと、勉強になったこともたくさんあったので
つらつら思い出すままに
一年間の珍道中について書いていこうと思います。

ちなみに個人情報の問題があるので
固有名詞はすべて架空・仮名で書いていきます。

 

おいおいおまえ、受験かよ!?

来年の監督を指名されたのは、息子が5年の夏前。
その時点で、息子の代は8人いました。

なかでもいちばん長くやっている松本君は
4年生の時から6年生の試合に出ていて
ピッチャーもキャッチャーもサードもできて
バッティングもうまい。
(たぶん全部、僕よりうまい。)
休憩の時間も一人でフライを挙げて捕っているような
野球大好き少年。

彼を軸に、もう一人くらいピッチャーできる子を速成できれば
勝算は立つかな、と
当時は、なんとも甘く見積もっていました。

ところが、そんな目算はうまくいかないのが常で。
まず、ひとつ上が9人いたこと、これがまずかった。

5年生8人のうち
2番手ピッチャー候補だった佐藤君
紅一点の工藤ちゃん、もう一人二見君。

もともと息子とは保育園仲間で
息子をチームに誘ってくれた3人が夏合宿で退団。
理由は、出番が少ない、球拾いばかりやらされるから。

おいおいマジかよ、と思ったら
さらに冬には同じような理由で
俊足の森君が、脱兎のごとく退団。

これはやばいぞ、と思っていた矢先
松本君のお父さんが挨拶に来た。

「受験したい学校があるので、来春まで休部します。」と

耳を疑いましたよ、僕は。
8人が4人になったと思ったら
まさかの主軸も抜け、新6年生は3人。
僕の監督シーズンはそんな形ではじまりました。

悔いが残るのは保育園仲間の3人。
家族同士、仲良くしていた部分もあったので
もっとお父さん仲間で野球のこと
チーム作りのこと、話し合えばよかった
そんな風に思いました。

とはいえ、後悔してばかりでも仕方がない。
案外、ラッキーだったのは
このチームは、学年の上下関係がゆるく
子ども同士は下の学年とも仲がいい。
8人いる新5年生に、息子たち新6年生3人が混じって
シロート監督率いる、凸凹チームの一年が
始まることになりましたとさ。

続きはまた明日。

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