リレーコラムについて

④母が書いたノートのこと

鈴木勝

東日本大震災の発生から一週間後、母が書いたノートを見せてもらいました。

わたしの実家は岩手県釜石市の外れの限界集落のような漁村にあるのですが、

津波は家の裏手の斜面をあと2メートルのところまで削っていました。

 

当時大阪で働いていた私は、飛行機と、内陸部で営業していたタクシーを乗り継ぎ、

エンジンフィルム(当時)からいただいた2リットルの水6本と、物資がふんだんな

大阪で仕入れた大量のカロリーメイトやインゼリー、乾電池などを持って駆けつけました。

当然連絡もつかず、玄関に入ったとたん驚いて駆け寄ってきた母に抱きつかれて、

マスオさんが驚いたときのような姿勢で、なんとも言えない数十秒を過ごしました。

 

電気は点きませんでしたが、プロパンガスと簡易水道が生きていたので、

母が鍋で米を炊いていると、ご近所さんがアワビを持ってきてくれました。

冷凍庫が動かなくなったので、食べきれないから食べて、とのこと。

せめてものお返しにカロリーメイトとインゼリーを差し出したら、

意に反して、「こんな貴重なものいいの?助かるぅ」と喜んでくれました。

硬いものが食べられないおばあさんに、ちょうどよかったそうです。

 

集落には柱や梁の大きな古い家が多く揺れによる被害はあまりなかったこと、

消防団の人たちが全員避難させて逃げ遅れた人がいなかったこと、

お風呂の水が満ちるように湾内の水位が上がるのを高台から見ていたこと、

母はとにかく誰かに話したいようで、ひとしきり聞いてあげると、

今度は日記のようなノートを見せてくれました。

そこには、ふだんの我儘な母とはまるで別人の、

悟りを開いた聖人のようなことばが、とても丁寧な字で書かれていました。

 

要約すると「私はなんという愚かで身勝手な人間だったのだろう。見知った人たちが

無事でいてくれる普通の毎日の有難さが身をもってわかった。みんな大切な人たちだ。

もう、不満を言ったり、人のことを悪く言うのはやめよう。これからは、すべての人に

感謝の気持ちを持って生きていこう。」みたいなことが、何ページにもわたり綴られていました。

 

でも、残念なことに、それが続いたのは5日間くらいでした。

ページをめくるにつれて、次第に怒りや憤りが綴られるようになり、

ついには不便な暮らしへの愚痴や周囲への文句が多くなってきて、

いつもの母らしい文章が綴られる様になっていきました。

わたしは、あんなひどい状況の中でも、

母が少しずつ元気を取り戻していったのだと思いました。

 

数日後、人間ってすごいなと思いながら帰路につき、

飛行機の窓から大阪の街の灯りが見えたとき、わたしはものすごく安心しました。

それは、自分が日常に帰ってきたことに対する安心だと気づき、

まだ震災が続く場所で真っ暗な夜を過ごしている母たちのことを思うと、

とても情けなく申し訳ない気持ちになるのでした。

(⑤電通デジタル コピーラボのこと、につづきます)

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