TCC会報出張所

《書籍紹介》シャープさんのSNS漫画時評 スマホ片手に、しんどい夜に/ 山本 隆博 著

『シャープさんのSNS漫画時評 スマホ片手に、しんどい夜に』

山本 隆博 著

出版社:講談社

定価:1,540円(本体1,400円+税)

発行日:2023年9月15日

 

2018年よりTCCにひっそりと所属しております。山本隆博と申します。ひっそりというのは、私は私が勤務する企業の公式アカウントで言葉を紡ぐのが仕事ゆえ、はたして自分はコピーライターと名乗ってよいものか、いまだに確信を持てないからです。そうやって自分のやっていることにくっきりと輪郭がともなわないまま、ふだん仕事の舞台としているSNSやインターネットから逸脱し、私の文章が紙の書籍としてまとめられることになりました。

とはいえ、あやふやな私があやふやなまま思索を重ねた書籍です。広告の本でもないし、マーケティングの本でもないし、ましてや言葉の本でもありません。言葉どころか、マンガも載っています。

なのでそのあやふやさを語った「まえがき」を転載することで、本の紹介に代えたいと思います。書籍紹介のコーナーに載せるにはバカみたいに長いですが、ご一読いただけますと、そしてあわよくば続く中身を購入していただけますと、私がひっそりと喜びます。

よくわからない本ができてしまった。

この書籍を手に取り、表紙をめくり、まえがきから律儀に読もうとされたあなたに、たいへん不躾な巻頭言だと思う。しかし偽らざる感情だ。私はいま自分の本を前にして、そう思わざるをえない。先に謝っておきます。申し訳ありません。しかしどうかこのまま、読むのをやめないでいただけるとうれしい。

この本は、漫画家が創作を続けることをインターネット上で支援するコミチという場所で、数年にわたり私が毎週連載しているコラムをまとめたものだ。まとめたといっても、現時点で220本を超えるコラムから、1冊の本に収録できる本数を選ぶのは、なかなか掴みどころのない作業だった。なぜなら毎週のコラムは、私がだいたいその週にコミチで公開された無数のマンガを読み、そのうちの1作について、私が思ったことや考えたことを綴っている。最初からテーマや切り口が設定されたコラムではない。むしろさまざまな漫画家さんが毎週どんなマンガを公開するかに、コラムの内容は左右される。だから私は、私が書きつけようとする心象をあらかじめ見通すことなく、場当たり的にコラムを書き続けた。結果、多岐に渡るとしか言いようのない文章が量産された。

毎週ひいひい言いながら書いた文章は、その作られ方において、コラムというより日記と呼ぶ方が近いかもしれない。読み返してみると、その時々の私の事情や生活の様子が蘇ってくる。それは例えば、まだ記憶に新しい、コロナに右往左往させられた暮らしや、社会に賛否と分断をふりまいたニュースや、自分の働く会社の苦境や、あるいは仕事でチクリと言われた言葉や、もっと直接的な叱責だったりする。もちろん日記のように、都度の出来事を具体的に記述してきたわけではないから、ありありと記憶が蘇るのはあくまで書いた本人である私だけだ。

この本に収録されている文章は、その時々のできごとに喚起された私の感情や思考が、ちょうど同じ時々にネット上を漂っていた、どこかのだれかのマンガと偶然に出会うことで、それを「エピソード」にして書かれたエッセイである。だからどのコラムも、前半がぼんやりした日記のように綴られ、真ん中に漫画家さんのマンガを挟み、後半はマンガと前半の私をいっしょくたに考察するような、なんだか不思議な構成になっている。私はこの本が書店に並べられる時、いったいどの棚に収められるのか、いまだによくわからずにいる。

ややこしい話はまだつづく。コラムの前半で綴られる、その時々の私の感情や思考は、必ずしも個人的なできごとをきっかけとしていない。私が結婚したとか仕事で成功を収めたといった晴れがましい身の上話でもないし、なにかを食べておいしかったとか安く買えたといった、ささやかな暮らしの幸運でもない。スマホを落としたとか遅刻したとか、あるあるな失敗談でもないし、だれと会ってなにを語ったかという話でもない。そういう私の生活上に起きたできごとではなく、日々SNS上で繰り広げられる事象を、スマホ越しに私の目で見つめ、私が感じたり考えたりしたという意味で、「公私が入り混じったできごと」をきっかけにしている。

というのも「公私が入り混じったできごと」は、私の仕事がいささか特殊であることに影響している。私の仕事は、私が勤める会社の公式アカウントを、ひとりで運営するというものだ。もう少し具体的に言うと、会社が知ってもらいたい情報をSNSにふさわしい言葉へ翻訳し、投稿ボタンを押す仕事である。もう少し簡単に言うと、冷蔵庫の新製品はどんなモノで、いつ発売されるかを、できるだけ多くの人に伝わる言葉で周知し、あわよくばできるだけ、あっちのメーカーよりこっちを買おうと決断してもらう仕事である。つまり広義の意味での広告宣伝であり、マーケティングだ。

しかしそこで私は、広告やマーケティングの範疇から逸脱する行為を積極的に行うようになった。そしていつのまにかツイッターで、私は「シャープさん」という匿名なのか記名なのかわからない呼称でもって、多くの人からそう呼ばれるようになった。

なぜツイッターでそんな逸脱をするようになったかと問われると、ここで与えられたスペースをはるかに超える話をしなければならないが、なぜお前が会社のツイッターをするようになったのかと言われれば、答えはかんたんである。10年ほど前に、会社から「やれ」と命じられたからだ。それまでの私は、テレビコマーシャルや新聞広告を作る仕事に従事していた。いわゆるマス広告と呼ばれる、巨大な金を使った宣伝手法の凋落が、さかんに叫ばれ出した頃である。その穴を埋めるように、当時は画期的なコミュニケーションツールとしてもてはやされていたツイッターに我が社も乗り入れなければ、という魂胆だったと思う。

そこで私は、これまで企業が広告する際に不文律とされていた話法を、なかば確信犯として変えようと試みた。企業が発するあらゆる文章の主語を「我々」や「我が社」あるいは「商品名」から、一人称である「私」に変えてしまったのだ。つまり私が運営する公式アカウントのツイートはほとんどすべて、その主語が明示される時もされない時も、「私」を主語に書かれている。もちろん表示されるアイコンやアカウント名は社名であるから、そのツイートの主体と立ち位置やスケールにはギャップが生まれる。看板が大きく掲げられているのにもかかわらず、その下で私は「あのね、私はね」と周囲の人にだけ伝わるような小声で、小さく小さく発信をしようとした。

なぜなら私は、大声を出すことにうんざりしていたのだ。声をはりあげ、だれかを振り向かせ、耳障りのいいことを、一方的に上から目線で押し付ける広告の手法に、私は限界を感じ、辟易していた。だから私はツイッターで、真逆のことをやろうとした。みんながツイートすることを「つぶやく」と牧歌的に呼んでいたあの頃、みんながしていたのと同じように、私は等身大の言葉で、ささやくように、だれかのつぶやきに紛れるように、小さなツイートを毎日欠かさず続けた。真逆の行為の追求は、時に自社の宣伝すら放棄し、他社の広告をする時さえあった。

その結果どうなったか。異様に話しかけられるようになったのである。家電の買い物相談、家電の使い方や故障の問い合わせ、家電の購入報告といった、公式アカウントとして想定できるものから、およそ想像もしなかった、個人の感情、身辺の雑談、愚痴、お悩み相談までもが、私のもとへ寄せられるようになった。いつのまにか私の仕事は、お客さんあるいはいずれお客さんになるかもしれない、どこかのだれかと、他愛のないおしゃべりをすることが日常と化してしまった。そしてその日常は、企業コミュニケーションを社会の大上段から引き摺り下ろし、どうにかしてお客さんと企業を近づけさせたかった私にとって、願ってもないものだった。そうやって私は、私を主語に会社と製品を語るうち、公私が入り混じりっていき、会社と社会のちょうど真ん中にたたずむ存在になった。その真ん中の存在が「シャープさん」だったのだと思う。

公私が入り混じった「シャープさん」として振る舞いながら、ツイッターで世間話を続けるうちに、いつしかアカウントそのものが巨大なものになった。常連客とおしゃべりしていた軒先が、いつのまにか音響装置付きのステージになったようなものだ。観客が増えれば、フォローされることもフォローすることも膨大な数になる。私のツイッターは毎日どこかのだれかの声が怒涛のように寄せられ、巨大なタイムラインにはお客さんの、お客さんでない人の、ふつうの人の、有名な人の、無数の人たちによる、なんてことのない日常やお知らせが、ごうごうと流れるようになった。その流れは時おり、大きなうねりのような様相を呈し、感情のかたまりのように見える時さえあった。もはやそこは、私と会社をとりまく「もうひとつの世間」だった。生活という極小と世論という極大が同時に見える場所がスマホの中に成立することは、ツイッターをよく使う人であれば同意してもらえると思う。

その「もうひとつの世間」に、公私入り混じった「シャープさん」として向き合った時の、生身の私に生じた感情や思考がひとつずつ、コラムには封入されている。ある日、そのコラムの群から書籍に収録するものを選びあぐねた私はなにげなく、掲載時に多く読まれた順に並べてみた。すると上位に並ぶコラムはことごとく、生きるたのしさとしんどさか、表現するたのしさとしんどさかについて語ったものだった。このことは逆説的に、深く私を納得させた。そのしんどさとたのしさとはつまり、私が毎日見つめていた「もうひとつの世間」を構成する成分そのものだったからだ。企業と世間を漸近させたかった私は、その成分にかぎりなく並走し、そこに流れる感情を肯定したいと考えていたのだ。

つまりこの先に並ぶコラムはすべて、いまを生きる人のしんどさを理解しようとし、いまなんらかの表現を志す人の背中を押そうと、とある会社員が呪詛と推しを肯定しようとした記録である。

繰り返すが、この本がどのジャンルに分類されるのか、私には見当がつかない。よくわからない本だ。しかしこの本が読む人を少しだけ安堵させることを、すでに私は知っている。ここに収録されたコラムはすべて、ツイッターで反響が大きかったものである。もしあなたに、なんだか疲れてしんどい夜や、自分の表現に悩む夜があれば、そっとスマホを置いて、ページをめくってほしい。よくわからない本だけど、いくばくかの効能があることは保証済みである。

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