空白の、あの一日があったから。
空白の、あの一日がなかったら。 「あの28年経って、今日は小林さんに謝ら
なければいけないっていうことを、私決めて
来ましたので」江川さんは両手で包み込む
ようにお銚子を持ち、小林さんの杯にお酒を
丁寧に注いだ。「長い間本当に大変申し
訳ありませんでした」一礼する江川さんに、
小林さんは、言った。「謝ることないじゃない」
「いえ…」ふたりは、杯をかわし、そして
静かに合わせた。乾杯、と小さな声が聞こえた。
どちらが言ったのか。「和解させていただいた、
ということで…」江川さん、「当然っ」と
小林さんが応えた。江川さんの表情が和らぐ。
「ありがとうございます。いただきます」
江川さんは小林さんと同じスピードで杯
を空けた。
小林さんと江川選手、そのふたりを結び
つけた源泉は、「空白の一日」の発見にあった。
1979年1月31日、「空白の一日意からおよそ
二ヵ月後に成立したトレードで、ふたりは
チームを交換することになる。ふたりはつな
がりながら、しかし、途切れたままだった。
「空白の一日」で始まった物語が起きてから
28年の歳月を経た2007年9月11日、目黒
になる真っ白なスタジオでふたりは出会い、
そして初めて言葉を交わした。
小林「しんどかったよなぁ」
江川「はい」
小林「おれもしんどかったけどな。ふたり
ともしんどかったんだよ」
江川「いろいろありましたもんねぇ」
小林「いろいろあった。おれにもあったし、
きみにもあった。おれたちの人生ってなにか
あるたびに、その空白の一日が持ち出されて」
ふたりは、歳月を重ねてもその物語の
主役をやめるわけにはいかなかった。
ずっと
ふたりは、遠いところから向き合っていな
ければならなかった。
球場でふたりが出会うのは、ソレードが
あった翌年のことだった。
江川「一年目は、小林さんとの対戦、なかった
ですね」
小林「一生おまえとは投げたくなかった。
だけどもし、対戦していたら負けられない
と思って、そして多分勝ったと思う」
江川「あの年は、小林さんすごいピッチング
していたから、やったら負けるな、と。でも、
登板は監督さんが決めることだから」
小林「一年目は、わざとずらしたんじゃな
いかな」
江川「(二年目の、初めての対戦のときは)
ぼくは絶対に負けられない、と思ってたん
ですよ」
小林「そう負けられないんだよね、多分君は」
江川「負けたら何言われるか分からない。
って思っていたから。勝てばそれがなく
なるような、そんな気がして」
小林「それがいいじゃないか、前向きな
気持ちに変わって行く段階の、いいステップの第一歩だったから」
江川「小林さんとの初対決、あれは八月十六
日なんですけど、その日というのが、僕が高校
の時に雨の中、甲子園で押し出しの四球を出
した日と同じ日なんです。そして、小林さん
との日もまた雨が降っていた。絶対に負けら
れない、小林さんに負けたら、やめるしかない、
やめようというんじゃない、やめるしかない…」
小林「というぐらい覚悟がいった…」
江川「お前が入って、小林さんをトレードで
出しときながら負けるとはなんだ、そういう
話になると思っていたんですよ。一生の中で負
けちゃいけないゲームがあるとしたら、これだ
と思っていましたから」
小林「ただ逆に考えると、あの一日がな
かったらお互いたいしたその後の人生を
送っていたのかもしれない」
小林「そう、刺激を避けながら」
江川「ものすごい刺激でしたから」
小林「だから、それがあるからその緊張を、
その緊張の仕方も上手になったろうし、その
緊張を和らげるための方法も自分なりに
あったんだと思うんだよね。(トレードという
ことがなければ)おれも22勝するなんてあんな
力は出せていないと思うし」
江川「小林さんがいいピッチングをすれば
するほど、小林さんに勝つしかないって。あの
状況で入ったからには、野球選手の成績とし
ては、越すしかなかったけど、防御率では勝ったんです」
小林「現役何年やったの?」
江川「僕九年です」
小林「オレが十一年、31歳でやめたから」
江川「僕32歳ですね」
ふたりが引退を決めた都市の成績は、ともに13勝
だった。まだ投げられる、そうした声援を受け
ながら、しかしふたりともユニフォームを脱いだ。
通算勝ち数139勝と135勝、通算防御率
3.18と3.02、何かの因縁があるかの
ように、ふたりの数字は酷似している。
お酒の力というものは、悔しい時にはその悔
しさを二倍に、嬉しい時にはその嬉しさを二倍に、そうやって明日に立ち向かう力を生み出
してくれる、というところにあるのではないか。
それはほんのひとときであれ、心の中に勇気
とか愛とか、不思議な力を生み出してくれる、というところにあるのではないか。
スタジオの中に
ふたりの時間がある、酒を酌み交わす、28年の
歳月を経て、ふたりの距離が近づいていく。
江川「時が経たないと。多分今の時でよかった
んですよね、お会いしたのが」
小林「(江川君と会って)残りの人生が少し
変わったものになるんじゃないか、って思う」
江川「ひとつの区切りをさせて頂いて、これか
らはいい年を取っていけるのなって」
ふたりは長いこと、手を
握り合ったまま立ち尽くしていた。そして
スタジオには拍手が鳴り響いた。

時を結ぶ 人を結ぶ

NO.24966

広告主 黄桜
受賞 TCC賞
業種 酒類・タバコ
媒体 その他
コピーライター 宗形英作
掲載年度 2008年
掲載ページ 34

宗形英作むなかた えいさく

1978年入会