一生、話をすることはない、と思っていた。
一度でいいから話をしたい、と思っていた。 1979年1月31日のことだった。
ひとつの事件で、全く関係のなかった二本
の糸が交わり、それが解けることもなく、
むしろ一層絡まり合い混線したまま、28年を越える年月が流れた。
その事件とは、「空白の一日」というトリック
に端を発したトレードであり、二本の糸とは、
そのトレードの主役となった小林選手であり、
江川選手である。
ふたりの野球人生を大きく変えることに
なった、その事件について、ふたりが言葉を
交わしたことはなかった。お互いが胸の内に
秘めたものを持ちながらも、それを伝える
機会がなかった。言葉にすることもできない
想いを胸に秘めたまま、2007年9月
11日を迎えた。
目黒にあるスタジオ、先ほどまでは晴れて
いたのに、急に外では激しい雨が降り出した。
暗くなるにはまだ早い時刻にもかかわらず、
うっすらと街には闇がかかっていた。雨音を
打ち消すように扉を閉めると、真っ白い明
かりに照らされたスタジオの静けさは一層
引き立った。まもなく午後四時、明かりの
真ん中にいる江川さんがふっと息を吐き
ながら、天井を仰ぐ。緊張が伝わってくる。
小林さんが差し伸べた手を江川
さんが両手で握り締めた。「どうもご無沙汰
しています」今まで語り合うことがなかった
ふたりの時間が始まった。
江川「あの事件依頼、自分の中でずっと続い
ているんですよね。小林さんとお会いする機会、
自分で作ればできたんじゃないか、と言わ
れたらそれまでなんですが、なかなか言う
場所がなかった。28年というときの助けも
借りるっていうか。この機会あって、小林
さんに申し訳なかった、ということをひと言
いえたらいいな、と」
小林「(この出演依頼を受けたとき)小林
さんがよろしければ、と江川さんが言って
ます、ということだからOKにしたの」
江川「だって、小林さん怒るかもしれない
じゃないですか。ぼくが原因を作ったから。
怒られるのはいいんですけど、やっぱり
怖いものなんですよ」
小林「お互い今まで距離を縮めてこなかった
から」
江川「そうですね」
小林「僕に先に来られたら、なんで今さら
とお断りしていたかもしれない。だけど、
わかってるんだよ、感情は」
江川「この事件を知っている人は、少しづつ
忘れていくんですよね。でも、われわれは
決して忘れられない」
小林「余計鮮明になっていくのかもしれない」
江川「だから、ぼくはここで一度お会いして、
申し訳ありませんでした、と言えたら、
一区切りつくのではないか、というふうに
思って」
かつて一度だけ、ふたりは偶然出会ったこと
があった。伊倉にあるレストランだった。あの
トレードがあった翌年の一月のことだった。
江川「小林さんが食事をされていて、あの、
謝ろうと思いまして。近くへ行こうとしたら、
小林さんに(軽く手を挙げて)制止された
んですよ」
小林「うんうん」
江川「で、その時、もう分かっているから
いいよ、っておっしゃったなぁ、と理解して、
そのお店を出て行ったんですけど、あの時
の小林さんの心境はほんとのところどう
だったんだろうって」
小林「いや、今会いたくない人に会っちゃった
なあ…」
江川「あの時、ちょっと憎しみとかあったんですか?やっぱり
小林「憎しみじゃなくて。俺達より周りが
盛り上がっている、そんな中でふたりで会話
を交わすのが、なんかな。江川君が僕のとこ
ろに来る、ということは、お詫びというか
謝ろうとする気持ちがわかるわけ。だから、
いいよいいよっていうふうな手の挙げ方をしたんだよね」
江川「多分、時間的に無理なんですね、あそ
こは。無理だった時間なんですよね」
小林「あそこでもし、俺がもっと大人だったら、
もっとこうやって気軽に話せる仲になって
いたのかもしれないね」
「空白の一日」、それは風化した、という人
もいる。その「空白の一日」が遠因となって
生まれたトレード、すでに28年以上も昔の
出来事である。確かに語るには、時が経った
かもしれない。しかし、ふたりのことが、今も、
人々のこころに残っているのは、なぜなの
だろう。トレードの年、わずか60キロそこ
そこの体で投げ続け、年間22勝を積み上げ
て沢村賞を受賞した小林選手と、勝っても
ニュース、負けてもニュースになる投手、と
言われた江川選手。トレードという一点の
みならず、その後のドラマがあったからこそ、
ふたりのソレードは、一層大きな歴史で
あるように思う。
これはおせっかいかもしれない。しかし
ながら、お酒というものが出来ることは、
人の気持ちを柔らかくし、胸の奥にあるもの
にそっと花を添えることではないか。もし、
小林さんの胸の中、江川さんの胸の中にある
ものを言葉に出来る機会があったとし
たら、ふたりはどんな話を交わすのだろうか。
それがきっかけとなって、ふたりの距離に
変化が生まれる、ということはないのだろうか。
緊張は少しづつ和らぎに変わっていった。
江川さんが小林さんの杯にお酒を注ぎ、小林
さんが返杯をしようとすると、江川さんは
遠慮して手酌をする。それでも、と薦められる
と、江川さんは立ち上がってお酌を受ける。
28年前に絡み合った糸が、同じ空間で同じ
時間を呼吸している。和やかな顔のふたりが
いる。激しい雨がやみ、扉を開けると、外は
すっかりと暗闇に包まれていた。

時を結ぶ 人を結ぶ

NO.24965

広告主 黄桜
受賞 TCC賞
業種 酒類・タバコ
媒体 その他
コピーライター 宗形英作
掲載年度 2008年
掲載ページ 33